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3.お喋りな狐
老婦が言っていた神社は、住宅街の端にひっそりと佇んでいる。鬱蒼とした緑のせいで、太陽光は少ししか境内に入ってこない。参拝客も居らず、閑散としている。神主も居ない。あるのは、古びた小さな社が一宇だけだ。
無人の神社の雰囲気は独特だ。神聖なようだが、不気味さもある。今は昼間なので問題ないが、夜になれば、影に不審者が潜んでいてもおかしくない。
ただ、生い茂る緑のお陰か、空気は澄んでいた。深呼吸をすれば、体がすっと軽くなるような気がする。
新しい前掛けを付けるよう託された狐形の像は、色褪せた鳥居を潜ってすぐの場所に鎮座していた。ぶら下げている前掛けは、なるほど相当古びている。
ふさのは、以前より付けていたらしい布切れを外し、真新しい前掛けを取り付けた。薄汚れた石像に新品の生地は悪目立ちするが、雨風に曝されれば、すぐに馴染むだろう。
滞りなく用事を済ませたふさのは、狐の石像を背もたれにして寄りかかった。レザーのトートバッグから、水色のシガレットケースを取り出す。
バイト先の仲間に、「美味しいよ」と勧められて煙草をプレゼントされたのは、二週間前のことだ。断ることもできず、流されるまま吸ってみたが、皆が言うように、美味しいとは思わなかった。苦みとメンソールの味が舌に乗り、心なしか頭がふわふわするだけだ。だからといって、もう要らないと言って捨てることもできずにいる。欲しい訳でもないのに、ただ惰性で消費している。
煙草に火を点け、息を吸う。肺に濁った煙を取り込んでいく。吐いた紫煙は、宙を舞った。そして、石像の周りも囲っていく。
ふと、背後から視線を浴びているような気がした。振り返るも、誰も居ない。狐の像が立っているだけだ。
しかし、石でできたその獣の眼が、じっとふさのを見詰めていた。そんな筈はないのに、どうも目が合っている気がする。
ふさのは、まじまじと観察した。石像だ。どこからどう見ても、ただの置物だ。狐の形をしているが、石だ。生きている動物とは違う。
それなのに、この不可思議な感覚は何だろう。
目線を外すことができずに凝視していると、突然、その石像の口がぱかりと開いた。
「煙たし」
狐の像は、ふさのの顔をしかと捉えたまま、そう言った。硬いはずの石の体を動かして、言葉を発したのだ。
驚きの余り、ふさのは息を呑んだ。点けたばかりの煙草が、手から滑り落ちる。
「早う消さんか、このたわけが」
「え、え、何」
「火は好かん。消せ!」
そう言われて、ふさのは慌てて煙草の火を踏み消した。何がどうなっているのか、状況を把握できない。
「石像が」
「喋ってる」と言いかけて、「いや、そんな訳がない」と自身に言い聞かせる。
動転しているふさのに、狐が胸を張った。
「そう呆けた顔をするな。我は稲荷大神の神使ゆえ、ただの像ではない」
自慢げに自己紹介をする狐に、ふさのは返す言葉もなかった。眼前の未知なる生物を理解するには、一女子大学生の脳では難解すぎる。
狐が、すっと目を細めた。
「何だ、汝は稲荷大神を知らぬか」
「え? いや、その」
「稲荷大神は五穀豊穣の農業神であり、商売繁盛の神でもある。聞いたことくらいはあろう」
「あ、いや、はい」
「我はその神の使いを行う、誇り高き霊獣であるぞ」
狐の後ろで誰かが代わりに喋っているのかと考えたが、ふさの以外に人の姿はない。像にスピーカーのようなものが付いている様子もない。何より、狐は言葉に合わせてしっかりと動いている。
では、これは何なのだろう。夢か、幻か。自分がおかしくなっているのだろうか。
ふさのは益々混乱した。誰かにこの魔法のような現象を聞きたくとも、ここに居るのはふさのだけだ。
石像が喋るトリックなど見破ることはできないが、おいそれと目の前の現実を呑み込むこともできない。ただ、呆然と前を見詰める。
狐は、ふさのを見下ろしながら続けた。
「して、願いを一つ言え。我が聞いてやろう」
今度は思いがけず命令され、何のことだと頭を捻る。狐が大仰に溜息を吐いた。
「この前掛けの礼じゃ。聞いてやる」
「礼?」
「我もしばらく暇をしておった。汝が久し振りの客ゆえな、たまには良かろう」
狐は、ぐんと背筋を伸ばした。それから、大きくあくびをして見せる。
だが、ふさのはやはり得心できなかった。隣に住む老婦人に頼まれ、前掛けを持って来た。それを狐の像に付けてやった。それから煙草を燻らせていると、いきなり像が喋りだしたのだ。この非現実的な流れを、どう理解すれば良いのだろう。
黙っていると、また狐が目を尖らせた。
「もしや汝、不服か? 我ではなく、稲荷大神に直に祈願したいと申すか?」
狐は、「人間が欲望を直接神に願うなど、畏れ多い」と、鼻の上に皺を寄せた。
どうやら狐が言うことには、人が願いを神に伝えるには、特別に選ばれた霊獣を通して行うらしい。その上、今回は狐個人に寄贈された前掛けの礼であるから、神に直々に請い願うのはおかしい、とのことだ。
狐は滔々と教えてくれるが、ふさのが引っ掛っているのは、そこではない。石像と会話をしていること自体が、不可解なのだ。
だが、狐は返事を待っているようだった。仕方なく、ふさのも答えることにした。
「願いは、多分、ありません」
「ほう。汝、欲がないと申すか。けったいな」
狐が物珍しそうに言う。
「さては、心が欠けておるのか」
「いえ。なんていうか、その前掛けは私が作った訳じゃないし。ただお隣さんに頼まれて持って来ただけで」
「そんなことは知っておる」
「じゃあ、何で私に……」
「我の気まぐれじゃ。して、願いは何だ。言うてみよ」
ふさのは、また黙り込むことになってしまった。急に何かを願えと言われても、ぴんと来ない。大金持ちになりたいと願うか、絶世の美女になりたいと願うか、賢くなりたいと願うか、あるいは――。
ありきたりな願望を挙げれば、きりがない。それらを願い、簡単に現実になるのだとしたら、確かにラッキーかもしれない。けれど、ふと考えてしまう。そんなことが実際に叶うとして、果たしてそれが真の願いなのだろうか、と。
ぐるぐる頭の中で考える。
「えっと、それじゃあ、幸せになりたいです」
そして、ようやく出た答えがそれだった。狐はきょとんとしている。
「随分と漠然としておるな。もう少し絞れんか」
「あ。えーと、はい」
「何に幸せを感じるのだ? 何の欲がある? それを言うてみよ」
具体的な返答を求められ、また困ってしまう。狐が、ふんと鼻を鳴らして笑った。
「汝、欲がないということは、己に興味がないということぞ。やはり、心が欠けておるな。まったく中身のない、つまらん人間じゃ」
ゆらゆらと太い尻尾を振り、狐が言う。その目が、水晶のように光っていた。
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