3.お喋りな狐

1/1
前へ
/13ページ
次へ

3.お喋りな狐

 老婦が言っていた神社は、住宅街の端にひっそりと佇んでいる。鬱蒼とした緑のせいで、太陽光は少ししか境内に入ってこない。参拝客も居らず、閑散としている。神主も居ない。あるのは、古びた小さな社が一宇だけだ。  無人の神社の雰囲気は独特だ。神聖なようだが、不気味さもある。今は昼間なので問題ないが、夜になれば、影に不審者が潜んでいてもおかしくない。  ただ、生い茂る緑のお陰か、空気は澄んでいた。深呼吸をすれば、体がすっと軽くなるような気がする。  新しい前掛けを付けるよう託された狐形の像は、色褪せた鳥居を潜ってすぐの場所に鎮座していた。ぶら下げている前掛けは、なるほど相当古びている。  ふさのは、以前より付けていたらしい布切れを外し、真新しい前掛けを取り付けた。薄汚れた石像に新品の生地は悪目立ちするが、雨風に曝されれば、すぐに馴染むだろう。  滞りなく用事を済ませたふさのは、狐の石像を背もたれにして寄りかかった。レザーのトートバッグから、水色のシガレットケースを取り出す。  バイト先の仲間に、「美味しいよ」と勧められて煙草をプレゼントされたのは、二週間前のことだ。断ることもできず、流されるまま吸ってみたが、皆が言うように、美味しいとは思わなかった。苦みとメンソールの味が舌に乗り、心なしか頭がふわふわするだけだ。だからといって、もう要らないと言って捨てることもできずにいる。欲しい訳でもないのに、ただ惰性で消費している。  煙草に火を点け、息を吸う。肺に濁った煙を取り込んでいく。吐いた紫煙は、宙を舞った。そして、石像の周りも囲っていく。  ふと、背後から視線を浴びているような気がした。振り返るも、誰も居ない。狐の像が立っているだけだ。  しかし、石でできたその獣の眼が、じっとふさのを見詰めていた。そんな筈はないのに、どうも目が合っている気がする。  ふさのは、まじまじと観察した。石像だ。どこからどう見ても、ただの置物だ。狐の形をしているが、石だ。生きている動物とは違う。  それなのに、この不可思議な感覚は何だろう。  目線を外すことができずに凝視していると、突然、その石像の口がぱかりと開いた。 「煙たし」  狐の像は、ふさのの顔をしかと捉えたまま、そう言った。硬いはずの石の体を動かして、言葉を発したのだ。  驚きの余り、ふさのは息を呑んだ。点けたばかりの煙草が、手から滑り落ちる。 「早う消さんか、このたわけが」 「え、え、何」 「火は好かん。消せ!」  そう言われて、ふさのは慌てて煙草の火を踏み消した。何がどうなっているのか、状況を把握できない。 「石像が」  「喋ってる」と言いかけて、「いや、そんな訳がない」と自身に言い聞かせる。  動転しているふさのに、狐が胸を張った。 「そう呆けた顔をするな。我は稲荷大神の神使ゆえ、ただの像ではない」  自慢げに自己紹介をする狐に、ふさのは返す言葉もなかった。眼前の未知なる生物を理解するには、一女子大学生の脳では難解すぎる。  狐が、すっと目を細めた。 「何だ、汝は稲荷大神を知らぬか」 「え? いや、その」 「稲荷大神は五穀豊穣の農業神であり、商売繁盛の神でもある。聞いたことくらいはあろう」 「あ、いや、はい」 「我はその神の使いを行う、誇り高き霊獣であるぞ」  狐の後ろで誰かが代わりに喋っているのかと考えたが、ふさの以外に人の姿はない。像にスピーカーのようなものが付いている様子もない。何より、狐は言葉に合わせてしっかりと動いている。  では、これは何なのだろう。夢か、幻か。自分がおかしくなっているのだろうか。  ふさのは益々混乱した。誰かにこの魔法のような現象を聞きたくとも、ここに居るのはふさのだけだ。  石像が喋るトリックなど見破ることはできないが、おいそれと目の前の現実を呑み込むこともできない。ただ、呆然と前を見詰める。  狐は、ふさのを見下ろしながら続けた。 「して、願いを一つ言え。我が聞いてやろう」  今度は思いがけず命令され、何のことだと頭を捻る。狐が大仰に溜息を吐いた。 「この前掛けの礼じゃ。聞いてやる」 「礼?」 「我もしばらく暇をしておった。汝が久し振りの客ゆえな、たまには良かろう」  狐は、ぐんと背筋を伸ばした。それから、大きくあくびをして見せる。  だが、ふさのはやはり得心できなかった。隣に住む老婦人に頼まれ、前掛けを持って来た。それを狐の像に付けてやった。それから煙草を燻らせていると、いきなり像が喋りだしたのだ。この非現実的な流れを、どう理解すれば良いのだろう。  黙っていると、また狐が目を尖らせた。 「もしや汝、不服か? 我ではなく、稲荷大神に直に祈願したいと申すか?」  狐は、「人間が欲望を直接神に願うなど、畏れ多い」と、鼻の上に皺を寄せた。  どうやら狐が言うことには、人が願いを神に伝えるには、特別に選ばれた霊獣を通して行うらしい。その上、今回は狐個人に寄贈された前掛けの礼であるから、神に直々に請い願うのはおかしい、とのことだ。  狐は滔々と教えてくれるが、ふさのが引っ掛っているのは、そこではない。石像と会話をしていること自体が、不可解なのだ。  だが、狐は返事を待っているようだった。仕方なく、ふさのも答えることにした。 「願いは、多分、ありません」 「ほう。汝、欲がないと申すか。けったいな」  狐が物珍しそうに言う。 「さては、心が欠けておるのか」 「いえ。なんていうか、その前掛けは私が作った訳じゃないし。ただお隣さんに頼まれて持って来ただけで」 「そんなことは知っておる」 「じゃあ、何で私に……」 「我の気まぐれじゃ。して、願いは何だ。言うてみよ」  ふさのは、また黙り込むことになってしまった。急に何かを願えと言われても、ぴんと来ない。大金持ちになりたいと願うか、絶世の美女になりたいと願うか、賢くなりたいと願うか、あるいは――。  ありきたりな願望を挙げれば、きりがない。それらを願い、簡単に現実になるのだとしたら、確かにラッキーかもしれない。けれど、ふと考えてしまう。そんなことが実際に叶うとして、果たしてそれが真の願いなのだろうか、と。  ぐるぐる頭の中で考える。 「えっと、それじゃあ、幸せになりたいです」  そして、ようやく出た答えがそれだった。狐はきょとんとしている。 「随分と漠然としておるな。もう少し絞れんか」 「あ。えーと、はい」 「何に幸せを感じるのだ? 何の欲がある? それを言うてみよ」  具体的な返答を求められ、また困ってしまう。狐が、ふんと鼻を鳴らして笑った。 「汝、欲がないということは、己に興味がないということぞ。やはり、心が欠けておるな。まったく中身のない、つまらん人間じゃ」  ゆらゆらと太い尻尾を振り、狐が言う。その目が、水晶のように光っていた。
/13ページ

最初のコメントを投稿しよう!

21人が本棚に入れています
本棚に追加