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8.憧れの人
喋る狐の石像。年老いた河童。小さな蛇の竜神。団子にしか化けられない子タヌキ。足が生えた神鏡。
ここ数日、不思議な夢を見続けているようだ。
ふさのは、唐揚げの匂いが染み付いたエプロンの紐を結び直しながら、彼らのことを思い返していた。何も答えが出ないのは分かっているが、ふとした瞬間、つい考えてしまう。彼らの正体は何者なのか。そもそもあれはただの幻覚なのか、と。
壁に掛けられた時計は、午後七時を指していた。その時計のすぐ横には、赤提灯が沢山ぶら下げられている。
他にも、昭和初期を意識したポスター。棚に並んだ、ゼンマイ仕掛けの玩具。使い古された木材のテーブルに、ドリンクケースを置いただけの椅子。
レトロな雰囲気が人気の小さな居酒屋「マメ助」では、これからの時間が商売の書き入れ時だ。
「らっしゃいまーせー」
「まーせー」
店員の威勢の良い掛け声がこだまする。団体の来客だ。ぼんやりしていたふさのも、続いて声を出した。
マメ助は、駅から目と鼻の先ほどの距離にある。ふさのが通う大学とも近い。人通りが多く、交通の便も悪くない。店員は若いアルバイト学生ばかりで、ふさのも働き始めて一年になる。
店を仕切る店長は、二十代後半の好青年だ。大きな口を開けて笑う顔が爽やかで、勤務中、頭に巻いているタオルから滴る汗すら涼しげだ。誰彼分け隔てなく接する人柄で、ノリも良い。その上、ふさのと同じアルバイト学生の噂によると、「独身」「彼女募集中」とのことである。
彼はアルバイト学生皆から人気がある。本人はモテている自覚がないようだが、彼目当てで通う客も居る程だ。御多分に洩れず、ふさのも彼に特別な感情を抱いている。
ただ、高嶺の花だ。取り立てて長所がない自分では、到底無理な相手だ。だから、両想いになりたいとは思っていない。そもそも、一人抜け駆けをして、皆から睨まれるようなこともしたくない。
恋とは違う。おそらく、これは憧れだ。密かな「推し」だ。見ているだけでいいのだ。時折、シフトの限られた時間内に会話を交わす。それで十分なのだ。
「らっしゃいまーせー」
またアルバイト学生の誰かが声を張り上げた。店内が益々騒がしくなった。新しい客が来たようだ。
ふさのは、注文された品の確認のため、調理場内の冷蔵庫を開けた。中には、すぐに出せる作り置き料理がびっしりと詰められている。
しかし、珍しいことに、在庫が少ない品を見付けてしまった。しっかり者の店長が、材料を切らせることは珍しい。
ニンニクだれに漬けている鶏肉が、残り五皿。キャベツと玉ねぎも、数個しかない。今日はまた一段と食材の減りが早いようだ。
ふさのは、ホールを見渡した。サッカーのユニフォーム姿で、顔にペイントを施した客が多く見受けられる。
そういえば今日は、近くの運動公園でサッカーの試合があったはずだ。きっと彼らは、打ち上げに来た観戦客だろう。今はまだ、日が暮れて間もない時間だ。マメ助への来客は、これから更に増える可能性がある。
食材の在庫数を報告するため、ふさのは店長の姿を探した。ホールには居ない。厨房内の近くにも居ない。それならば、裏の倉庫だろうか。
そう考えていると、不意にとんとんと肩を叩かれた。
誰だろう。
ふさのは顔を横に向けたが、振り返った先、顔面一杯モフモフの毛で覆われてしまった。何も見えず、視界は真っ暗だ。
「わっ」
ふさのは驚いて、その不思議な物体を手で払った。けれど、その毛玉らしきものは、ひょいと簡単に身をかわした。
突然のことに、何が起きたのかと瞠目すると、そこに居たのは、ふわふわの毛に全身覆われた、小さな獣だった。しかも、見たことがある。「一」のバンダナを付けた、子タヌキだった。
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