1.私とあの子

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1.私とあの子

「以上のように、大勢の者が居るにも関わらず援助を行わない社会心理を、傍観者効果と言います」  一九六四年、ニューヨークで起きた事件だ。  女性がマンションの入り口で暴漢に襲われたこの事件は、近くに三八八人の市民が居たにも関わらず、全ての人に傍観されたまま、刺殺という最悪な結末を迎えた。多数の人物が傍に居たが、誰も警察に通報しなかったのだ。  傍観者効果。これは、周囲に多くの人が居るほど、困っている者を助けようとしない、人間の集団心理だ。たとえ助けが必要な人が居たとしても、各個人に「誰も助けようとしていないから、大丈夫なのだろう」とか、「自分だけが目立ちたくない」という意識が働き、結果、一人ひとりの責任感が薄れてしまうのだ。世の中には性善説を唱える者も居るが、人という生き物はそう単純ではないらしい。  内山ふさのは、教壇に立つ心理学講師の話を聞きながら、斜め前の席を見た。  村上歌子。まだ二十歳だというのに、白髪混じりのごま塩頭。手入れされていない眉毛。ニキビだらけの脂ぎった肌。ひび割れた唇。深く切られた爪。  持ち物も、個性的なものばかりだ。例えば、時代遅れのチューリップ柄のペンケースに、薄汚れた狐のキーホルダー。ショッキングピンクの大きな布製鞄に付いているのは、ビジュアル系バンドの缶バッジ。そして、ゲームセンターの景品であろう、アニメキャラクターの人形たち。  不潔、根暗、オタク。  それらの形容される言葉全てを持った彼女は、とても同じ女子大学生とは思えない。見ているだけで、どことなく不快になる。もう少し外見に気を付ければいいのに、とか、悪目立ちする格好なんてしなければいいのに、とか。個人的に恨みがあるわけでもないのに、ついそんなことを考えてしまう。  それでも、あえて彼女との共通点を挙げるとすれば、同じ大学の、同じ同好会に入っていることくらいだろうか。  ふさのが通う就山大学は、有名な教授が文学部に集まっているせいか、文化的活動を強く推奨しているきらいがある。その一つとして、雅楽を研究する同好会もあるのだが、偶然にも、ふさのも村上歌子も、その同好会に在籍中なのである。  ふさの自身、雅楽に特別造詣が深いわけではない。大学入学時、たまたま目が合った同好会メンバーのサークル勧誘に掴まり、断りきれずに加入してしまった。他に入りたいものがなかったから良いものの、押しに弱いのは悪い癖だ。  ただ、ふさのは、音楽自体は好きだった。幼少期からピアノを習っていたので、譜面も読める。  思い返せば、中学生時分、ロックミュージックに憧れたこともあった。虹色に染められた髪の毛を振り乱し、掠れた声でシャウトしていた、インディーズバンドの男性ミュージシャン。彼に恋焦がれ、貯めていた小遣いでCDを買った。歌を覚えるため、毎夜、何度も聴いていた。  しかし、それも数ヶ月でやめてしまった。通っていた中学に、同じ趣味を持つ友人が居なかったのだ。理解もされなかった。  最初は、仲の良い数人に勧めたりもした。大好きなミュージシャンの良いところを力説した。けれど、いつも否定的な意見しか返ってこなかった。 「どうしてそんな曲を聴くの?」 「気持ち悪くないの?」  そんな言葉を繰り返されると、うまく返事ができなかった。「それよりも、こっちの方がいいよ」と流行の曲を提示されると、その通りかもな、と考えるようになった。誰も見向きもしないミュージシャンの曲ではなく、皆が褒めるアーティストの方が、何倍も価値があるように思えてきた。何より、自分だけ変わり者扱いされるのも嫌だった。  その点、意外なことに、雅楽は非難されることが少ない。ポップミュージックに比べると人気はないが、大学の校風も手伝ってか、周囲の理解がある。そればかりか、伝統文化に熱心な、大学生らしい嗜好だと判断される。  最初は乗り気でなかった雅楽同好会だが、次第に馴染んでいる実感があった。雅楽自体、古臭い音だと思っていたが、じっくり聴いてみると、繊細な和音の調べも悪くない。最近増えたコンピュータで作られる音色とは、まるで違う。各々の楽器全てが主役であり、主旋律であり、主張し合う。それなのに、他の音を殺すことなく、互いに大切な役割を果たしている。  同じ同好会のメンバーである村上歌子が、果たしてどれくらい雅楽に興味を持っているかまでは分からない。メンバーであっても、話したことがないのだ。彼女は浮いている。同好会内でも、それ以外でも、異質性が周知されているのだ。  今も、不特定多数の学生が集まる授業中だというのに、好奇の目にさらされている。 「では、本日はこれまで。後はこのプリントを二枚ずつ取り、後ろに回して下さい」  講師が、授業の終わりを告げた。薄く濁った藁半紙の束が配られる。次回までに提出しなければならない課題だ。  村上歌子の前方に座っていた女子学生は、大学内でも目立つ存在の、西山チエリだ。艶のある茶色の髪の毛。くるりと巻いた長い睫毛。絹のような肌に、潤んだ唇。毎週色を変えるネイル。いつも沢山の友人たちに囲まれ、男女共に人気があるマドンナだ。  チエリが、回ってきた藁半紙を取り、後ろへ送る。しかし、その紙の束が、村上歌子の手に渡ることはなかった。  派手な音を立て、課題たちは床の四方に拡がる。 「あっ、ごめーん」  チエリが口元を押さえ、大袈裟に謝った。プリントを撒き散らしたのだ。本気で悪いと思っている様子は見られない。  黙って席から立った村上歌子が、課題を拾い始める。手伝う者は居ない。このようなことは、日常茶飯事だ。皆が皆、村上歌子と距離を取っている。  講師も気付かぬまま、終鈴のチャイムと共に教室から出て行った。誰も何もしない。ただ村上歌子だけが、落ちた紙を黙々と集めている。  ふさのは、視線を窓の外に向けた。雲はまばらにあるが、晴れている。  午後から雨だという天気予報は、当たりそうもなかった。
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