6人が本棚に入れています
本棚に追加
公園の木は駅のホームからも見えた。梢は濃緑の葉を異常なくらいに繁茂させていて、不規則に膨れ上がった、その厚ぼったい重なりに、男は爆発星雲を連想した。
その雲の中を、何か黄色ものが一瞬だけかすめて、閃光のように消えた。
超新星爆発と星にまつわる連想を重ねて、ならこのホームはなんだろうと、男は考えた。宇宙船だろうか。
梢から視線を外して、男は去って行く列車を眺めた。
ホームは暑くて、男はうんざりした。駅前や街中がもっと暑いことが分かっていたからだ。二十年ぶりでも変わらないことがあるとしたら、きっとこの暑さだった。
鞄を持ち上げると、男は歩き始めた。
駅前は息苦しいほどに暑かった。
大型のバスが何台もたむろしていて、駅前のロータリーは排ガスの異臭が凄まじかった。巻き上げられた砂埃と排気ガスで、見上げた空が曇って見えるほどだった。日差しは、なのに容赦がなかった。
ロータリーを抜けて、男は歩き続けた。
二十年ぶりでも、道を覚えていることに、男は奇妙な感動を覚えた。
道は忘れていなくても、目に入る光景は違っていた。電気店は駐車場になっていて、何度か通ったことのある料理店は空き地になっていた。
感慨はなかった。
二十年間、故郷に帰らなかったのは、それなりの理由があってのことだ。
この町を憎んでいた。
それでも今は、ここしか行く場所がない。
数日前に電話で話した母親は男の帰還を歓迎しているのか、拒んでいるのか、よく分からなかった。少なくとも追い返されはしないはずだし、そうでなければ困る。
無意識にたどる道は、記憶にあるとおりに、狭くてもつれていた。
掘って埋めてを繰り返した道路は、アスファルトがまるでパッチワークのようだった。工事中のバリケードがそこかしこで道を遮る。
実家は鈍色をした一戸建てだった。足の踏み場に迷うほどの、無数の植木鉢が、歩哨のように玄関先に並べ立てられていた。
だらだらと汗を流しながら、男は家の中で鳴るチャイムの音色を聞いた。
三度目になって、母親はドアを開けた。男の顔を彼女は見ようともしなかったけれど、それでもドアは大きく開いていた。
男もろくに挨拶もしなかった。二階に上がって、昔の自分の部屋に入った。
部屋には父親のものらしい、よく分からないガラクタが押し込まれていた。
畳には埃が薄く積もっていて、窓が閉め切られていたせいで、はち切れそうな熱気が淀んでいた。
その中に入っていって、男は窓を開けた。靴下がモップのように埃を集めた。窓からは、隣家の薄汚れたピンクの壁が見えた。
母親は地縛霊のように、戸口のところにただ立っていた。
荷物だけを置いて、男は「煙草を切らした」と言って、家を出た。母親は何も言わなかった。
最初の角で自販機を見つけたが、男は素通りした。
煙草は何年も前の、値上げのときに止めていた。小銭が足りずに、買うのを諦めたことが一度あって、それ以来、ニコチンへの欲求は男から抜け落ちたていた。
単に、家にいたたまれなかっただけだ。
けれど男は直ぐに後悔した。正午過ぎの街は暑すぎた。まるで熱湯の中を泳いでいるようだった。
体中の水分が絞り出されるようだったが、飲料の自販機の前も男は素通りした。小銭が足りないのは今もだった。
陽炎の立つ街をさまよい、気が付けば、公園の中に入り込んでいた。
子供の頃に何度も遊んだ公園だった。
妙にやる気の感じられない遊具は真新しくて、覚えてるはずがなかったが、一番奥に立つ巨木を忘れることはできなかった。
ホームから見えていた木だった。更に奥に、のしかかるような駅舎の影が見えている。
男はその木陰を目指した。
公園は無人だった。男は自分の呼吸音だけを聞いた。日差しが強すぎて色が飛び、公園はモノクロームに変わっていた。
梢が落とす影が濃すぎて、地面には穴が空いてるように見えた。境界線を踏み越すとき、男は本気で穴に落ちる錯覚に見舞われた。
くしゃみを、男はした。
かいた汗が急速に冷えて、男は寒気を感じた。
開ききっていた瞳孔の調整が間に合わなくて、急に何も見えなくなった。
狼狽して振り向くと、強すぎる日差しの元で白茶けた公園が、変わらずにそこにあった。
男はため息を吐いて、汗を拭った。
暗がりの中に巨木の幹が潜んでいた。
無数の蛇が絡まってできたような、節くれ立ったその幹は、太すぎて、その大きさだけで化け物じみていた。
そこで梯子に、男は気付いた。それは幹に立てかけてあった。
もし梯子に気付かなかったら、男だってそんなバカなまねはしなかった。
公園には今、男しかいなかった。梯子を立てかけたのが誰でも、その誰かは今はここにいなかった。
アリバイでも作るように、男は辺りを見回した。公園は変わらずに無人で、白茶けていた。どこかすごく遠いところから自動車のノイズが聞こえた。
もう引っ込んでしまった汗を拭ってから、男は梯子を登った。
今はそんなまねはできないが、子供の頃は幹のうろや瘤に手を掛けて、この木に登ったことが何度もあった。
梯子は大きな枝に立てかけてあって、男はそれとは別の、太い枝の上に登った。子供の頃に、その上の跨がったような記憶があった。
梢の中に入ってしまうと、そこはほんとうに真っ暗だった。
木漏れ日が時折、星のように瞬いた。潮騒のような葉擦れの音が四方から降り注いだ。それは呼吸を思わせる、強弱のリズムを持っていた。
男は太い枝の上に立ってみた。
梢の冷たい闇は、子供の頃の想い出のようで、男を慰めてくれた。
男は無駄に終った、この二十年を考え、ここを出て向かう、地獄のように暑い街のことを考えて、吐き気を覚えた。
そういうことを考えるのが嫌で、男は子供の頃をことを考えようとした。
楽しかったはずだった。ここでも遊んだ。この梢でも。
そのとき額に何かがぶつかったような気がした。
ここで何かがあったはずだった。なんだったろう?
超新星――。
なんだ? ああ、この木の梢に、黄色の…………。
あれは。
パキ、という音がした。それから不自然な葉擦れの音。
何かがいて――
こちらに向かっていた。
逃げ場はなかった。
男は落ちた。
逃げたとか、そういうことではない。単に慌てて、バランスを崩して、落ちた。
仰向けに落ちて、男は梢を見上げた。身体が動かなかった。
梢がざわめいた。
「ずっと待っていたんだな」
最後に男はつぶやいた。
最初のコメントを投稿しよう!