爆発星雲

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 公園の木は駅のホームからも見えた。梢は濃緑の葉を異常なくらいに繁茂させていて、不規則に膨れ上がった、その厚ぼったい重なりに、男は爆発星雲を連想した。  その雲の中を、何か黄色ものが一瞬だけかすめて、閃光のように消えた。  超新星爆発と星にまつわる連想を重ねて、ならこのホームはなんだろうと、男は考えた。宇宙船だろうか。  梢から視線を外して、男は去って行く列車を眺めた。  ホームは暑くて、男はうんざりした。駅前や街中がもっと暑いことが分かっていたからだ。二十年ぶりでも変わらないことがあるとしたら、きっとこの暑さだった。  鞄を持ち上げると、男は歩き始めた。  駅前は息苦しいほどに暑かった。  大型のバスが何台もたむろしていて、駅前のロータリーは排ガスの異臭が凄まじかった。巻き上げられた砂埃と排気ガスで、見上げた空が曇って見えるほどだった。日差しは、なのに容赦がなかった。  ロータリーを抜けて、男は歩き続けた。  二十年ぶりでも、道を覚えていることに、男は奇妙な感動を覚えた。  道は忘れていなくても、目に入る光景は違っていた。電気店は駐車場になっていて、何度か通ったことのある料理店は空き地になっていた。  感慨はなかった。  二十年間、故郷に帰らなかったのは、それなりの理由があってのことだ。  この町を憎んでいた。  それでも今は、ここしか行く場所がない。  数日前に電話で話した母親は男の帰還を歓迎しているのか、拒んでいるのか、よく分からなかった。少なくとも追い返されはしないはずだし、そうでなければ困る。  無意識にたどる道は、記憶にあるとおりに、狭くてもつれていた。  掘って埋めてを繰り返した道路は、アスファルトがまるでパッチワークのようだった。工事中のバリケードがそこかしこで道を遮る。  実家は鈍色をした一戸建てだった。足の踏み場に迷うほどの、無数の植木鉢が、歩哨のように玄関先に並べ立てられていた。  だらだらと汗を流しながら、男は家の中で鳴るチャイムの音色を聞いた。  三度目になって、母親はドアを開けた。男の顔を彼女は見ようともしなかったけれど、それでもドアは大きく開いていた。  男もろくに挨拶もしなかった。二階に上がって、昔の自分の部屋に入った。  部屋には父親のものらしい、よく分からないガラクタが押し込まれていた。  畳には埃が薄く積もっていて、窓が閉め切られていたせいで、はち切れそうな熱気が淀んでいた。  その中に入っていって、男は窓を開けた。靴下がモップのように埃を集めた。窓からは、隣家の薄汚れたピンクの壁が見えた。  母親は地縛霊のように、戸口のところにただ立っていた。  荷物だけを置いて、男は「煙草を切らした」と言って、家を出た。母親は何も言わなかった。  最初の角で自販機を見つけたが、男は素通りした。  煙草は何年も前の、値上げのときに止めていた。小銭が足りずに、買うのを諦めたことが一度あって、それ以来、ニコチンへの欲求は男から抜け落ちたていた。  単に、家にいたたまれなかっただけだ。  けれど男は直ぐに後悔した。正午過ぎの街は暑すぎた。まるで熱湯の中を泳いでいるようだった。  体中の水分が絞り出されるようだったが、飲料の自販機の前も男は素通りした。小銭が足りないのは今もだった。  陽炎の立つ街をさまよい、気が付けば、公園の中に入り込んでいた。  子供の頃に何度も遊んだ公園だった。  妙にやる気の感じられない遊具は真新しくて、覚えてるはずがなかったが、一番奥に立つ巨木を忘れることはできなかった。  ホームから見えていた木だった。更に奥に、のしかかるような駅舎の影が見えている。  男はその木陰を目指した。  公園は無人だった。男は自分の呼吸音だけを聞いた。日差しが強すぎて色が飛び、公園はモノクロームに変わっていた。  梢が落とす影が濃すぎて、地面には穴が空いてるように見えた。境界線を踏み越すとき、男は本気で穴に落ちる錯覚に見舞われた。  くしゃみを、男はした。  かいた汗が急速に冷えて、男は寒気を感じた。  開ききっていた瞳孔の調整が間に合わなくて、急に何も見えなくなった。  狼狽して振り向くと、強すぎる日差しの元で白茶けた公園が、変わらずにそこにあった。  男はため息を吐いて、汗を拭った。  暗がりの中に巨木の幹が潜んでいた。  無数の蛇が絡まってできたような、節くれ立ったその幹は、太すぎて、その大きさだけで化け物じみていた。  そこで梯子に、男は気付いた。それは幹に立てかけてあった。  もし梯子に気付かなかったら、男だってそんなバカなまねはしなかった。  公園には今、男しかいなかった。梯子を立てかけたのが誰でも、その誰かは今はここにいなかった。  アリバイでも作るように、男は辺りを見回した。公園は変わらずに無人で、白茶けていた。どこかすごく遠いところから自動車のノイズが聞こえた。  もう引っ込んでしまった汗を拭ってから、男は梯子を登った。  今はそんなまねはできないが、子供の頃は幹のうろや瘤に手を掛けて、この木に登ったことが何度もあった。  梯子は大きな枝に立てかけてあって、男はそれとは別の、太い枝の上に登った。子供の頃に、その上の跨がったような記憶があった。  梢の中に入ってしまうと、そこはほんとうに真っ暗だった。  木漏れ日が時折、星のように瞬いた。潮騒のような葉擦れの音が四方から降り注いだ。それは呼吸を思わせる、強弱のリズムを持っていた。  男は太い枝の上に立ってみた。  梢の冷たい闇は、子供の頃の想い出のようで、男を慰めてくれた。  男は無駄に終った、この二十年を考え、ここを出て向かう、地獄のように暑い街のことを考えて、吐き気を覚えた。  そういうことを考えるのが嫌で、男は子供の頃をことを考えようとした。  楽しかったはずだった。ここでも遊んだ。この梢でも。  そのとき額に何かがぶつかったような気がした。  ここで何かがあったはずだった。なんだったろう?  超新星――。  なんだ? ああ、この木の梢に、黄色の…………。  あれは。  パキ、という音がした。それから不自然な葉擦れの音。  何かがいて――  こちらに向かっていた。  逃げ場はなかった。  男は落ちた。  逃げたとか、そういうことではない。単に慌てて、バランスを崩して、落ちた。  仰向けに落ちて、男は梢を見上げた。身体が動かなかった。  梢がざわめいた。 「ずっと待っていたんだな」  最後に男はつぶやいた。
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