今夜のシチュー

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今夜のシチュー

 結婚して三年目、専業主婦の彼女がアルバイトを始めたのはダイエットがきっかけだった。最近体重が増えてきたことを気にして、体を動かさなければと思っていた。ただ彼女は運動が苦手だった。歩いたり筋トレしたりと言う行為は億劫で仕方がなかった。そこで目をつけたのが、最近流行りの宅配のバイトだ。飲食店から依頼されて自転車で料理を運ぶ。運動にもなるし、それが収入に繋がるのだからモチベーションも上がると言うものだ。  ところがそれは長続きしなかった。想像以上に過酷だったし、また競争も激しかった。もともとのんびりした性格の彼女には向いていない仕事だった。  そこで見つけたのが買い物代行のアルバイトだった。依頼があれば相手宅まで出向き、買い物リストと代金を受け取る。適当なスーパーやコンビニで購入したリストの品々を届ければいいだけだ。客は高齢者や体の不自由な人が殆どだ。たいていの依頼は数日分の食材を揃えることを目的としているので時間にせかされることもなかった。   その日も彼女はあるマンションを訪れていた。初めての客だった。  ドアを開けると、40代と思しき男性が待っていた。車椅子に座っているところを見ると下半身が不自由なのだろう。  男は彼女の姿を見るなり目を輝かせ、嬉しそうな笑顔を浮かべた。 「すみませんね。半年前に脳梗塞にかかっちゃって。それで麻痺が残ったんですよ。まだ車椅子の操作に慣れないもので、助かります」  確かに慣れた人でも車椅子での買い物は大変そうに思える。そもそも売り場の構造が健常者目線で作られているのだ。  大変ですねぇと、彼女は同情の笑みを浮かべてから、差し出された買い物リストを受け取った。  そこでざっと目を通す。今回は身の回りの日用品の買出しのようだった。指定の銘柄や注意事項を確認してから、彼女はマンションを後にした。  近所のドラッグストアで一通り買い物を終えた頃、カバンの中で携帯が震えた。見れば先ほどの依頼人からのメッセージだった。追加の注文だ。  じゃがいも、にんじん、たまねぎ、ローリエ、赤ワイン……。  それを見るうち、彼女は思った。ああ、シチューを作るのかと。だがそれには足りないものもあった。確認の電話を入れようかと迷ったが、おそらくそれらはまだ自宅にストックがあるのだろと思いやめておいた。  依頼人のマンションに戻ると再びさっきの男性が出迎えてくれた。 「お待たせしましてすみません。近所のスーパーでローリエが切れていたもので、もう一つ先の店まで探しに行ったら遅くなっちゃって」 「いえいえ、構いませんよ。追加の注文をしたのはこちらですから」  彼女が玄関の上がり口に荷物を置くと、男は不器用な手つきで車椅子を動かし、それを運ぼうとする。  見かねた彼女が、 「あの、よろしかったら荷物、お運びしましょうか?」 「あ、すみません。じゃあ、この廊下の突き当たりの部屋にお願いします」  男は申し訳なさそうな表情を浮かべ、車椅子を廊下の片側に寄せた。  彼女はレジ袋を両手に提げると、男の横をすり抜けて奥の部屋に向かう。後ろから車椅子の音が付いてくる。  黙っているのもなんだと思い、買い物リストのことを訊ねてみた。 「追加のリスト見ましたけど、あれ、シチューを作るんですか?」 「ええ、そのつもりです」 「でも、足りないものもあったと思うんですけど、ストックはあったんですか?牛肉とか」  言いながらドアを開けた瞬間、彼女はギョッとなった。  床の隅々まできっちりとブルーシートが敷き詰められていた。  一歩二歩と歩みを進めると、シャリシャリとシートの擦れる音が部屋に響く。  これはきっと、車椅子で床を汚さないためのものだろう。  そう思いつつ振り返ると、男が目の前に立っていた。二本の足で。 「え?」  困惑する彼女とは対照的に、男は不気味な笑みを浮かべると、 「私のシチューはね、牛肉は使わないんですよ」  手にした大きな肉切り包丁をゆっくりと振り上げた。
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