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武が急に「取引先の女性と結婚する」と言い出した時、最初は小雪を不憫に思った。けれど恋心と才能を投げうって親の跡を継ごうとする彼の気持ちも痛いほどわかった。
人生の決定権は自分にはない。愛してくれた家族のために生きたいと願う彼の気持ちは言葉にしなくてもわかることだった。
ところが結婚の話は唐突に流れた。彼が「フラれた」と言い張るので追及するつもりはないが、彼らの結婚はお互いの会社を背負っていた。破談になれば分の悪かった有川商事もただではすまない。
ところが業務提携の話はその後滞りなく進んだらしい。社長である彼の父が融通したのだろうと思うけれど、本当のことはわからずじまいだ。
武が自ら「フラれる」選択をしたのだろうか。もしかすると人生の決定権は自分たちの手の中にあるのだろうか。わずかばかりの希望を抱き始めた頃、私は綿谷からプロポーズされた。
告白と同時だった。心の準備はできていなかったけれど迷わずうなずいた。ずっと誰よりも、大切にしたい人だったから――
折り紙を握ったまま薄暗い部屋でぼんやりしていると、扉のむこうから声が聞こえた。
「紗弥ちゃん、お風呂どうぞ」
小雪だった。条件反射のように返事をして我に返る。
彼女の幸せを祈るなら、この折り紙はあってはいけない。自分の未来にも、この想いはきっと足かせになる――
立ち上がって折り紙を破り始めた。誰が見ても判別できないように小さくちぎっていく。もう武の顔を思い出さないようにして他のゴミに混ぜた。
施設にいた頃の彼との思い出は、ずっと心の支えだった。現実にしがみついて生きればまた会える日が来るかもしれないという希望は、生きるエネルギーそのものだった。
それも今夜でおしまいだ。
手をはたいてリビングに下りた。濡髪の小雪が携帯電話をタップしている。私の逃亡を阻止するミッションは未だ続いているらしい。
「逃げやしないわよ」
そう言うと小雪は顔を上げた。この家で出会った時と同じ、私を信頼している瞳だった。「あんたも早く寝なさいね」と言って脱衣所に向かう。
挙式のために渾身の力をこめて全身を磨こうと思うと、憂鬱だった気持ちも少し晴れる気がした。
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