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2.結婚前夜
『ブラックバード』に入ると、武はまだ来ていなかった。
拍子抜けしながらいつものカウンター席に座る。厨房ではまだ試作をやっているらしく、肉の焼けるいい匂いが漂ってきた。
黒いサロンを身に着けた綿谷が厨房から顔を見せる。
「浮かない顔をしてるね」
「……やっぱりやめた方がいいと思います」
後ろにいる同期生たちに聞こえないよう、つぶやいた。綿谷はお冷を差し出しながら囁くように言う。
「マリッジブルーってやつかい?」
「結婚しても、私はあなたの役には立てないから」
頭の中で渦巻いていた言葉がこぼれてしまった。さすがの彼でも愛想を尽かしているだろうと思うと顔も見られない。
すると綿谷はステーキ用の鉄板をカウンター席に並べ始めた。肉汁の香りが鼻先をかすめて腹が鳴る。恥ずかしさに隠れたいくらいだったが、彼はカトラリーを並べて言った。
「厨房のスタッフが納得いかないらしくてさ。君が言ったとおりソースを三種類用意したんだけど、どうかな」
何だか話をそらされていると思ったが空腹には勝てなかった。種類も厚さも違うステーキ肉を、順にソースにつけて頬張る。定番のデミグラスソースを改良したもの、すりおろした玉ねぎを入れたオニオンソース、わさび風味の醤油ソースの三種類だ。
「私はデミが一番好きだけど、三種類とも出してもいいんじゃない?」
「肉の方はどうかな」
「これが一番やわらかくて肉の風味もしっかりあって、美味しいと思います」
ナプキンで口を拭きながら言うと、彼は満足そうに笑った。
「君は十分、役に立ってると思うよ。なんたってこの店の味は君の舌次第なんだから」
にこにこと笑いながら「うん、うまい」と試食する彼を見て、してやられたと思った。なんだかんだと言ってもいつもこの調子でやりこめられてしまう。
「でも役に立ってほしいから結婚するんじゃないよ。僕はどうしても君が欲しいんだ」
眼鏡の奥の瞳が優しく微笑んでいる。この顔をされると目をそらせなくなる。
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