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「気まぐれで姿を消されるのも困るけど、君が誰かのものになるのはもっと耐えられない。結婚すれば君は僕のものだ。ずっと手放さないつもりだからその覚悟はしておいて」
穏やかな笑顔とは裏腹に、綿谷の声は身体をぎゅっと縛りつける。息苦しいけれど心地よくて、ずっと酔っていたい響きだ。
まぶたが熱くなってうつむくと彼はカウンターから出てきた。そっと手を伸ばし、私の前髪をかき分ける。
「まだ何か、未練がある?」
私は身を固くした。彼は何でもお見通しだという調子で心の中に入ってくる。その度に身構えてしまう自分がたまらなく嫌だった。
「悪い、遅くなった」
黒いジャケット姿の武が入店した。髪はいかにも社会人らしく短いのに、目だけは学生の頃と変わらない。
「すっげえいい匂い。まだ試食やってんの?」
彼は私の隣に腰かけると、無遠慮にステーキを頬張った。
「ちょっと、それ私のだけど」
「いいだろ別に」
「いいわけないでしょ」
腕をぎゅっとつねると彼は小さく叫んだ。隣に座る綿谷が苦笑いをするが、武はお構いなしだ。
「綿谷さん、明日のメニューは決まりましたか?」
「うん、これで最後だね。なんとか間に合いそうだよ」
武は「そりゃよかった」と言いながら全部食べてしまった。幼い頃からの知り合いとはいえ遠慮がなさすぎる。
同期生に「あのさ」と声をかけられて私と武が同時に振り返った。その拍子に肩が当たる。武は「悪い」と立ち上がったが、私は何も返せなかった。
ただ、触れた肩が熱い。
「……用が済んだなら帰ってもいいですか」
私がつぶやくと、綿谷は目を丸くした。
「ああ、明日は朝が早いしね。送って行こうか?」
「小雪と一緒に帰ります。明日はよろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
私の調子に合わせて彼も頭を下げた。付き合って一年も経つのに敬語が抜けないことを咎めもしない。
明日から共に暮らすこの人にどう寄り添えばいいのだろう。答えの出ない問いはずっと頭の中で回っていた。
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