日曜日の午後に

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 一階に降りると、旦那が寝ていた。 彼の半分程の人ならフィットしそうなソファから、これ以上ないくらいにはみ出している。首はおかしな方向に向いており、こちらからはつむじが見える。  近づくと、珍しく静かな寝息をたてていることがわかった。温かな気持ちになりながらも、何か布をかけてあげるようなことはしない。そんな関係に対してか、今の状況に対してか、何に対してかはわからないまま、私はほくそ笑んだ。  脱衣所へ洗濯物かごを戻しに行き、喉を潤そうと冷蔵庫を開けた。スーパーで買ったサイコロカットのスイカが目に入る。ふと、昔のことを思い出した。大学二年の夏だった——。  その夏、ゼミのメンバーでバーベキューをすることになり、一人の先輩が買出し係になった。その先輩の家がたまたま会場から近かったからである。早めにいろいろ準備しておき、冷蔵のものを含め彼の部屋に一時的に置いておこうという流れになっていた。そしてそれからもう一人、ジャンケンで負けた私も買出し係に任命された。  晴斗先輩が買出し係になったとき、私は今までで一番負けたかったと思う。ジャンケンに。  晴斗先輩は、私の中で特別な存在だった。顔が格好良いわけでもなく、勉強ができるわけでもない先輩は、いつも誰かを助けていた。お婆さんをおんぶしたり妊婦さんに寄り添っていたりするのは見たことがないけれど、少なくとも彼は、一緒にいたゼミの中ではいつも誰かをフォローしていた。教授に怒られている人、周りの無茶振りに困っている人。私も何度何度、救われたかわからない。私はその度に感謝の気持ちを超えて胸が締め付けられた。  それから、晴斗先輩は自虐ネタが上手だった。それを駆使して誰かに助け舟を出すときもあれば、笑いに変えることもあった。彼の自虐は決して惨めでネガティブなものではなく、先輩自身は芯に譲れないプライドを持っていて、自分の意見を通すことができる人だった。  晴斗先輩は、すごくすごく格好良かった。だからすごくすごくすごく、私は惹かれていたのだ。  私は同じ買出し係になることを願っていたものの、実際に叶うと戸惑った。嬉しかったが、二人きりでうまく話せるのかわからなかったのだ。いや、本当はわかっていた。晴斗先輩がうまく話せない人なんていない。どんな人でも、相手に合わせて楽しそうに話してくれる。 「おし、じゃあ相澤こっち持って」  買出しを無事終えた後、晴斗先輩は当然のように恐ろしく軽い荷物の方を私に差し出した。両手に軋むビニール袋を持つ先輩の腕には力が入っていた。気遣いにもならないくらいの自然な彼の優しさと強さに、胸が苦しかった。きっと、暑さのせいもあったかもしれない。 「荷物、大丈夫か?もうそこだから」  晴斗先輩の視線を追うと、小綺麗なアパートが見えた。晴斗先輩の家。晴斗先輩の、部屋。家より部屋という方がどきどきするのはなぜなのだろう。ここまでも大してスムーズな会話ができていた自信もない私は、明らかに自分の身体が緊張を増したのがわかった。どうか、気づかれませんように。私は自分の周りの空気を緩ませるイメージで、肩を回すように上下させた。  先輩の部屋は一階だった。 「ちょい待ち、今鍵開ける」 あれ、ない、どこだどこだ、あった、と笑う先輩が、眩しくて息ができません。並んだ隣で鍵が開くのを待つ私は、まるで晴斗先輩の彼女になったかのような気持ちになり、その妄想は一回生まれるとなかなか消えてくれなかった。鼓動が早いのがわかる。 「相澤、重かった?」 鍵を開けながら、先輩が私の目を見て笑う。 「はい」 ぶりっこをしている、と自分でも思った。先輩の目を上目遣いで見返して、小さな声で答えて少し笑った。私は意識的にか無意識的にか、男性が見て、否、晴斗先輩が見ていかに可愛く映るかを考えていた。可愛く映ろうとしたし、可愛くあろうとした。ごく当然に自然に必然に、出た仕草だった。それから私は今の先輩の言動から少なからず好意を受け取った。だって、わかる。わかるんだ。なんたって、私は正直もうずっと前から、晴斗先輩も私のことを特別視してくれてるんじゃないかって思ってる。  ここまでの買出し中に何度も目を合わせて話してきたし、周りは知らない人だらけで私達は二人だけだった。それでも、今このアパートの近くには本当にだれもいなくて、もしかしたら各部屋にはいるのかもしれないけれど、道を歩いている人もいなくて、遠くに車は見えたけれど、そんな中で本当に二人きりで目が合うのは、やっぱりなんだか全然違った。どきどきが、全然違った。全然、違います、先輩。 「ははっ、重かったよな、ありがとな。ちょっと待って、汚いけど・・・それ持ってこられる?」 「はい!」 私は明るく答えると、重いけど一生懸命に持っています、という持ち方をして先輩の後を追って玄関に入った。重いけど一生懸命に持っています、は、どうしたって自然な行動として出てしまう。身体が、顔が、勝手にそうなってしまうのだ。  玄関のドアが閉まったときよりも、台所兼通路を越えてワンルームに二人で入ったときに、何よりも私の脳内を炎上させた。ベッド、ローテーブル、テレビ、雑誌、棚。晴斗先輩の、匂い。どころじゃない、視覚も嗅覚も聴覚も触覚も、足りない。もっと余裕が欲しい。全ての感覚は晴斗先輩の情報で隙間なく埋められてしまっている。 「オッケ、ここ置いていいよ」 先輩は私から荷物を受け取った。渡す際に、指がしっかり触れた。下に置かないままだったので、重みで持ち手のビニールがぎゅっとなり、なかなか私の手から先輩の手に移す際にスムーズに行かなかったのだ。私たちは目を合わさなかった。袋の受け渡しをしている、という事実にお互い集中をしていたと思う、 「っと、よいしょ」 ビニール袋が先輩に渡ると、私は指に食い込んだ痕を別の指で撫でた。先輩と触れていたところは、触らない。顔をそちらに向けなくても目の端に映る先輩の物たち。ベッド、クッション、放り投げられた服。 「ははは、痛い?指」 先輩が私の手の動きに気付き、指差した。差している指をそのまま伸ばして、私の手に近づけた。 「結構赤くなりました(笑 )でもすみません、先輩の方が重かったですよね」 現在進行形で全力の無反応を装い続けている私と晴斗先輩の二つの手は、すぐにその苦行から解放された。一瞬のことだったけれど、くいと引っ張り見られた私の指の熱は、急上昇甚だしい。そして指さえも、可愛くあろうとしたことに私は心底驚いた。私は再度指の腹の痕をなぞり、先輩も自分の掌をなんとなく見た。二つの手は離れた後、とても自然な動きを取ったのだ。 「よし、じゃあ・・・行くか!」  私たちは買出し及び荷卸しが終わると、一度大学に戻ることになっていた。他のメンバーを含めたゼミの用事があるのだ。それが終わり次第、揃って皆で会場に行くことになっていた。その時は他の数人も荷物運びを手伝うために晴斗先輩の部屋に来るだろう。 「はい、行きましょう——なんか、喉渇きましたね」 「なー。あ、なんか飲んで行く?」 私は一秒だけ経った後に答えた。 「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」 私の笑顔に、晴斗先輩はいつもの暖かい笑顔を返した。 「おれはちょっと飲むっ——ていうか、カットスイカがあった!(笑) これ賞味期限いつだっけ——まだ平気か」  晴斗先輩は冷蔵庫からプラスチックケースを取り出し、その中にはサイコロカットされたスイカが入っていた。スーパーのお値下げ品。楊枝が刺さっているから食べかけだろう。私は笑った。 「ちょっとパサついてきたかも・・・?相澤、ほら」 先輩は自分ですばやく二つ食べた後、もう一度別のスイカに楊枝を差して私に差し出した。 「あ」 ありがとうございます、と楊枝を受け取ろうとすると、あーん、と先輩が言った。せっかく落ち着き始めていた私の心臓は、残念ながらまた激しく疲れることになってしまった。恥ずかし過ぎて、食べるときも食べた後も、晴斗先輩の目を見ることができなかった。 「美味しいです」 口に手を当てながら、床に向かって笑っていた。 「でしょ?」 晴斗先輩が私の顔を覗き込んだ。急に目が合ってものすごく驚く。そして顔、近いです。でも、嬉しくて嬉しくて、にやけてしまうから。ちょっと、待ってください。 「ははっ、よし、じゃあ——行く?」 下を向いてスイカをしゃくしゃくしている私に先輩が言った。 「はい」 私はなんとか笑顔で答えたけれど、その後一緒に大学へ向かう間、最後の言葉は提案じゃなくて判断依頼だったのではないかと脳みそが延々と訴え続けた。買出しの時間、部屋、触れた手、カットスイカが、二人の秘密としてぐるぐるぐるぐる脳内再生を繰り返していた。  晴斗先輩とは最初から最後まで先輩と後輩だった。私は間違いなく晴斗先輩に惹かれていた。おそらく先輩も。ほんの少し特別に思う関係。話したり、何かの拍子に触れたりすると、嬉しくなるし、心がふわふわするような関係。なんとなくどきどきし合う関係。それはきっと、始まらない恋。始まらない恋は、始まらなかったのだ。もしあのとき、と思う場面は信じられないくらいあった。いくらでも、どうにでもなった。変えられた。もし、あのとき。もし、あのとき。もし、あのとき——。でもそれは、どうしたって“始まらなかった恋”なのだ。  私がリビングに戻ると、旦那はまだ寝ていた。先程とは体勢が変わっている。いびきを一回かいたが、また静かになった。 「あなたにはいくつの始まらなかった恋があったのかしら?」  私は毛穴が見えるくらい旦那の顔に近づくと、愛しくて笑った。
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