4.喜びの涙!

1/1
前へ
/4ページ
次へ

4.喜びの涙!

 アパートへの帰り道、私は彼とほとんど口を利かなかった。ふだんになく急ぎ足だったから息が上がってとても妄想をする余裕などなかったのだ。  玄関を上がり、まずレジ袋から小学校の購買部で買ってきた上履きを引っ張り出した。私の時とは色も形も違う。靴の底が厚く頑丈になったようだ。  一つ大きく深呼吸をして、かつて母がやってくれたように、靴にマジックペンで名前を書いた。ひらがなでなるべく大きく読みやすく。  母は十九歳で私を生んだから、私が小学校に上がったのは母が二十六歳の時だ。折しも私も今年二十六歳。  シングルマザーの母が自分で稼いだお金で娘に上履きを買ってやり名前を書いてやる。それは喜びだったろうか。子供のいない自分にはわからない。それが一週間後に紛失してしまい、白いソックスを真っ黒に汚して帰ってきた娘を見て母は何を思っただろうか。私は親不孝者だったのだ。  そう考えると、書く手が震えてひらがなが歪んでしまった。涙が一粒、ポトッと音を立て上履きの表面を打った。 「お母さん、足らない娘でごめんなさい」  座卓の上の母の位牌の前に、私は上履きを丁寧に置き、手を合わせた。  とたんにふわっと、温かいものに包まれた。 「美貴ちゃん…」  優しく呼ばれ、背中を抱かれた感じがあった。健太郎と入籍せずに済んだことに母はほっと胸をなでおろしているのだろう。健太郎がいじめの震源地であることを知っていたのかもしれない。  赤いコートはビニールカバーがかけられたままクローゼットにかかっていた。 「あ、そういえば…」  近くのクリーニング店からビジネススーツと一緒にこのコートを受け取ってきたのは確か智之だったはず。彼がクローゼットにかけ、そのまま二年と数カ月が流れたわけだ。 「うそ…」  ポケットに何か入っている。背筋に冷たいものが走った。  保護ビニールを慎重に破いてみると、ポケットに入っているのは水色の封筒だった。震える手でそっと抜き取る。 「ほら、中学生の時好きな先輩にラブレターを渡したら、散り散りに破られたって話してたよね」  ふと後ろから声が聞こえたような気がして振り返る。誰もいない。  私は見えない相手に問いかける。 「だからあなたが私にラブレターを書いて、かたき討ちをしてくれたのね」 「いや、そういうのは仇討ちとはいわないだろ。あはは…」  心の中での夫婦の会話は癖になって離れない。  水色の封筒は小さいハート型のシールで止めてあるだけだったから、隙間に指を入れると簡単に開封できた。   母と智之の位牌の前で正座し、便せんを広げる。  智之の癖字を目にした瞬間、息が止まり、涙が後から後からあふれてきて読むのに手こずった。 『美貴ちゃんへ 家族の方ときいてほしいという診断結果を僕はひとりできいてきました。 どうやら、僕には時間があまり残されていないようです。 あなたにどうしても伝えたいことがあるのです。 言葉ではうまく話せないと思い、手紙で伝えることにします。 僕は美貴ちゃんが大好きです。 「愛している」とか「恋している」とかいうのとはちょっと違う気がします。 それらの言葉は人のエゴが入っているような気がして好きじゃありません。 「大好き」というのは、大切な人だからしあわせになってほしいーーそういう感じです。 美貴ちゃんが幸せになれるなら、夫は僕でなくてもいいじゃないか。 ーーそう思ったこともあります。 でもやはり、美貴ちゃんのことは僕が幸せにしてあげたかったのです。 そして美貴ちゃんに僕の子を生んでほしかったです。 欲張ったから罰を受けちゃったんですね。 僕はもうすぐ死にます。 死は怖くありません。 僕には宗教はありませんが、信仰はあります。 神様は僕の願いをきいてくださるでしょう。 願いはふたつあります。 ひとつめは、守護霊となってあなたを守ることです。 ふたつめは、来世にあなたのお腹から生まれることです。 親孝行して、母親のあなたをしあわせにしてあげたいのです。 神様はかならず僕の願いをきいてくださいます。 だから、苦しいとき、悲しいときは僕の名を呼んでください。 僕がいつもあなたのそばにいることを感じるでしょう。 守護霊ですから。 愛する人ができたら、その人の腕の中でしあわせになってください。 そのときはまちがえても僕の名前を叫んではいけませんよ。 生まれてくる赤ちゃんはきっと健康で、利発で、親孝行です。 さいごに、 僕と結婚してくれてありがとう。 最高にしあわせでした。』  夫が逝ってから二年間、私はこんなにも大切にされていたのだ。  智之は私の妄想の産物ではなかった。私の夫はこの世界に存在しているのだ。そして私を守ってくれているのだ。それに気づかなかったのは、一途でまっすぐなものが届かないほど、私の心が歪んでいたからだ。  いじめは人の心を病的にゆがめる。それは内的な傷害罪だ。いじめで自殺に追い込んだりすれば殺人罪だ。  私は一途な愛を注いでくれた夫のおかげで治癒された幸せな人間なのだ。 「ねえ?」 「何だい?」  ベッドでもオレンジとブルーの縞シャツを着ている彼。 「人ってさあ…」 「うん?」 「嬉しく涙を流すってことが本当にあるんだね」 「そうだよ。僕なんかキミと暮らせて嬉しくてさあ、いつもシャワー浴びながら泣いていたよ」 「それで浴室から出てくるといつも目が真っ赤だったのね」 「僕がキミの妄想でないことを信じてくれるなら、これからも驚きの事実を少しずつ公開してゆくよ」  私は嬉しくなって彼の胸を頭をのせる。  温かい。私は今、確実に彼の体温を感じている。  耳を強く胸に押し当ててみる。  こんな近くから彼の鼓動が聞こえる。  涙がこぼれて彼の胸を濡らした。
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加