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1.喜びの涙?
幼稚園で作った折り紙のひな人形をやんちゃな園児に破られて泣いた。
朝、登校したら上履きが見当たらなくて、ランドセルを胸に抱きしゃがみこんで泣いた。
切ない思いを織り込んだ手紙を好きな先輩に目の前で破られて泣いた。
悔しいことで、悲しいことで泣いたことはいくらでもある。
「嬉し涙」?
そんなもの存在するの?「嬉しい」という感情でさえ私には無縁なのに。ましてやそこに涙だなんて。
「『嬉し涙』なんてまやかしだ!」
そう吐き捨てつつ、黒のパンプスのつま先にあった飴玉ほどの大きさの石を蹴ると、それは芝生の領域を超え、雨に濡れた街灯を反射する散策道に転がり出て、カツカツとカスタネットのような音を立ててとまった。一陣の風が湧き起こり頭上でイチョウの葉がさらさらと鳴った。
「おやおや、傘もささずに今日はどうしたんだい」
聞きなれた、温かい、私の心にじわっとしみいるような声が落ちてきた。ああ、この声に感動して涙を流せたらどんなにいいだろうと思った。
「こんばんは」
「ああ、こんばんは」
彼はベンチが雨に濡れ黄色いイチョウの葉がくっついていることなどものともせず、私の隣に腰を下ろした。私が生まれて初めて男の人にプレゼントしたブルーとオレンジの縦じまのシャツが無精ひげとよく似あっている。それを意識してか、彼が私の前に現れるとき髭を剃ってきたためしはない。
天から降る悲しみを一身に浴び、体の芯まで冷え切っていた私の上に大きな傘が差しだされ、さらに彼のいたわりに寄り添われ、私は少しずつ病から回復してゆく。
「で…、決意は変わらないんだよな? そういうことで、いいんだよな?」
彼は優しく私の肩を抱いてくれる。ふんわりと温かい男の体温と体臭を感じたいところだけど、それはとっくにあきらめたことだ。せめて、私があきらめたことが彼には伝わっていなければいいのだが。彼を傷つけたくないから。
「一緒に行ってくれるんだよね?」
「もちろんだよ。僕はそういう形でしか君を守れないから」
いつまでもベンチに腰を落ち着けたまま踏ん切りがつかないでいる私の肩を抱き、立たせてくれたのはやはり彼だった。
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