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2.いじめは家族をも傷つける
健太郎とは公園の向かいのファミリーレストランで会うことにしていた。
だが、待ち合わせ時間の直前に当人からメールが来た。自宅に来てほしいというのだ。私の震える手からスマホが落ちたが、彼がとっさに身をかがめてキャッチしてくれた。
「相変わらずの小心者だ、キミは」
無精ひげの彼が唇を左右に引くと彼の優しさに野性味が加味され、何とも形容しがたい魅力的な表情になる。高校の時からそうだった。髭はなかったけど、外見はぶっきらぼうでありながら近寄ってみると優しくて、女子たちにもけっこう人気があった。そんな彼がなぜ私なんかを好きになってくれたんだろう。
「健太郎、自宅に来てくれっていってる」
「だめだ。それは断るんだ。あいつのスペースに足を踏み入れたら、キミのことだから、また流されるに決まっている。流されたらもう明日はないんだ。今日は入籍前夜なんだぞ。わかってるのか」
だらか今すぐ電話して、約束した場所に呼び出せと厳しい口調でいう。
私は震える手で画面をタップした。大丈夫。彼が隣にいるんだから、きっとうまくいく。
三度目でやっと受話器を取った健太郎と話している間、彼は私の手を握っていてくれた。
私は生まれて初めて人を説得することに成功した。のらりくらりとかわす男にきっぱりと自分の意志を伝えられた。
健太郎のほうでも、いつもは羊のように従順な婚約者のただならぬ気迫を感じ、たじろいだようだ。結局私たちはファミリーレストランで会うことになった。
「婚約、解消しましょう。明日二人で婚姻届け出すことにしていたのも、なしということで。ごめんなさい…」
私は両手を膝に置き、深々と頭を下げた。そばのテーブルでコーヒーをすすっていた女性がじろりとこちらを見た。窓辺のボックス席だから公園からもオレンジ色の室内照明に照らされた私のみじめな姿が見えるかもしれない。
下げた頭を拳骨で殴られることを覚悟し、強く瞼をつぶっていた。ほんの数秒が永遠の長さと恐怖をもって感じられた。
恐る恐る目を上げると、まさか私がこう出るとは予想だにしたかったというように、健太郎は呆然と私を見つめていた。だらしなく開いた唇からちょっと前にすすったコーヒーが流れ出てきそうだった。
「あなたはいい人よ。若くして夫と死に別れ絶望に瀕していた私をなぐさめてくれたし、お父さんの会社の臨時社員として雇っていただいた。あの時は落ち込んで自暴自棄になっていたけど、こんな温かい人もいるんだな、世の中捨てたものじゃないなと、生きる気力が湧いてきたものだわ」
「婚約破棄か…。僕のどこがいけなかったのかなあ」
呆然とした表情がうつろい、憮然とため息をついた。
「あなたには悪いところなんてないわ。ただ、女というのは『かわいそう』だけじゃ生きられないの。愛されたいのよ」
「愛してきたつもりだけど」
そう。健太郎には本当によくしてもらった。だが彼が愛だと思っているものを私は愛としては受け取っていなかった。受け取れなかった。彼が私にくれたものは哀れみだった。施しだった。そして…贖罪だった。
いや、ひょっとしたら健太郎は私を真剣に愛してくれていたのかもしれない。彼なりに。受け取る側の私の心が歪んでいるだけだったのかも。
だが、歪んでいたとしても、それは私の責任ではない。歪めてしまった者たちの責任だ。私の買ってもらったばかりの上履きを焼却炉に放り込んだ者たちの。班づくりの時、どの班が私を受け入れるかで口論していた者たちの。「お前なんか好きなわけないだろ」と一晩中苦心して書いた手紙を破り裂いた男子の。私の体操服にこっそりたばこの焼き跡をつけた女子の。
そんな憎たらしい面々を思い浮かべていると、真っ黒の感情に胃が押しつぶされ吐きそうになる。悔しさや怒りや悲しみや諦め。どす黒く塗られた回想世界に足を引っ張られそうになったとき、一縷の光が差し、無精ひげが明るく微笑んできた。温かいものに包まれ引き上げられるような感じがした。
大丈夫。彼が隣にいる。私がプレゼントしたカラーシャツを着て優しく微笑んでいるではないか。
「それからさあ、変な噂を流していたのは健太郎だよね。私、それをつい最近知ったの。あなたのお友達が話してくれたわ」
健太郎が、え?ととぼけたような顔をした。私は彼の目が泳ぐのをとらえた。
「母子家庭だったというのは事実よ。でもね、お母さんは夜遅くまで必死に働いて私を育ててくれたの。あんたが言うように私もお母さんもカラダなんか売ってない。穢いことなんかしてない!」
私はつい声を荒げてしまった。一斉にお客さんと店員の視線を浴びる。
私は肩をすくめトーンを落とした。
「そんなことも知らずに、あなたと二年も付き合っていたなんて、私が馬鹿だったわ」
「だからさあ、謝罪の意味もあったんだよね、キミに職場を紹介したのも、あの時の上履きの代わりに作業用の安全靴買ってあげたのも…」
「ちょっと待って」
「え…」
「どうして上履きの話が出てくるの? それ、小学校の話?」
健太郎は眉毛と口角を上げ必死に笑顔を作ろうとしているが、頬が痙攣し徒労に終わっている。
「だ、だからさあ、それは、キミがもう友だちから聞いて知ってるんだろ? 小学校の時、僕が君の上履きを焼却炉に捨てたってこと。まあ、半分冗談のつもりでやっただけどさあ」
「じょ、冗談ですって?」
握った手がぶるぶる震えた。小学校での一番つらく悔しかった出来事にフィアンセがかかわっていたことが暴露された瞬間だった。
許せない。絶対に許せない。お母さんが私の上履き一足買うのにどれほど苦労したことか。あの事件は私だけでなく母の心にも深い傷を負わせたのだ。
いじめというナイフは、標的となった当人だけでなく、その家族をも深く傷つけるものなのだ。
私は怒りで熱を放出した分、肺が冷え固まり、まともに呼吸ができなかった。動機が激しい。意識が朦朧とし、周りの物の輪郭が薄く曖昧になってゆく。
空のコップに水を注いでもらおうと店員に手を挙げた瞬間、私の上体が不自然に前にのめった。健太郎の慌てふためく裏声と心臓のどくどくする音だけが耳朶に反響する中、意識が遠のいていった。
ブルーとオレンジの縦縞が瞼にフラッシュした。
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