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悲しい歌が聞こえてくる。
ピアノと、それに合わせたメロディだけの歌声、夏の終わりを感じる夜の風に乗って聞こえてきた。
気になって、駅から出たばかりの元は立ち止まり、辺りを見回す。駅前のロータリーの隅から聞こえてきていた。
キーボードを弾いている女性が、まるで空に向かって聞かせるように歌っている。
彼女の周りには人がちらほら立ち止まり、歌を聴いている。
いつになっても、路上ミュージシャンというものはいなくならないのかもしれない。元はそう思いながら彼女をじっと見つめ、下唇を自然に噛んでしまう。
歌が終わり、拍手が起きる。笑顔で頭を下げ、歌について話し始めたのをきっかけに、元は足を動かし始めた。
そのまま、家に帰るつもりだった。だけど彼女を探していた時に見つけたバーに、足はふらりと進んでいく。
二階建ての建物。一階の店はシャッターが閉まっている。その横にある狭いが明るい階段を上りきると、シックなドアが目の前に現れる。
そのドアを押して入れる。
静かなジャズが流れていた。
淡い照明に、木製の磨かれたバーカウンター。奥にはボックス席があり、カウンターの中の壁には、リキュールの瓶がずらりと並んでいる。
バーテンダーは二人。一人が元に折り目正しくお辞儀をすると、お好きなところへと示す様に、店内を手のひらで指し示した。
適当な椅子に座りながら、雰囲気のいいバーが最寄り駅にあったなんて、と驚きつつ店内を見回していた。
ことり、と硬いものが丁寧に当たる音がして、元が視線を前に戻せば、おしぼり受けが元の前に置かれていた。
お礼を言いながらおしぼりで手を拭きつつ、目の前の淡く照らされている棚を見渡し、自分の好きなウィスキーを見つけ、ロックで頼む。
バーテンダーが落ち着いた声で返事をして、用意を始める。
そこに、トイレに行っていた、元と同い年くらいの男が戻ってきて、つい目を向けてしまい、目が合う。相手がにこやかに笑うものだから、元も会釈して、視線を前に戻す。
もう一人のバーテンダーがナッツの入った小皿を出してくれたので、それを一つ二つと摘まんでいたら、ウィスキーの入ったグラスがコースターの上に乗せられる。
グラスを手に取り、唇へと傾ければ、口の中に香りが広がる。元はしかし、それを楽しむことなく、ぐっと飲み干してしまう。そして、同じものをすぐに頼んだ。
早く酔いが回ってほしいと願うような飲み方だった。
「なんだか、浮かない顔ですね」
「え?」
気づけば、さっきの男が元の横に座っていた。
「そういう時は、甘ったるいくらいのカクテルを飲むと良いですよ」
「そういうものですか」
「私の勝手な持論ですがね」
男はそう言って、バーテンダーにカルーアミルクを頼んだ。
先にウィスキーのロックが出てくる。それを男が慣れた手つきでかっさらい、半分ほど飲んでしまう。
「ちょっと」
「ん~。ウィスキーはいいですね。この鼻を抜ける香りが癖になる。私は詳しくないので、いつでも人のおすすめを飲むんですがね」
「いや、それは私の」
「あなたには、カルーアミルクを差し上げますよ。それに、ここの支払いも私が持ちましょう」
「結構ですよ」
「まあまあ。ほら、来ましたよ」
「加瀬さん」
カルーアミルクを持ってきたバーテンダーが、男に声をかけた。
加瀬と呼ばれた男は、へらへらと笑ったまま。
「大丈夫だよ。お金ならあるから」
「他のお客様の迷惑にならないように」
「厳しいね、おたくは」
注意をされながらも加瀬は、元に話しかける。
「お兄さん、寂しいのかい?」
「人間、恒常的に寂しさを抱えてるものだと思いますよ」
「いいね、同意見だ」
自分から席を離そうか、もしくは店を出ようかと思ったが、支払いをしてもらえるという甘い言葉に抗えず、ぐっとカルーアミルクも飲み干した。
「どうだい?」
「悪くないですね」
「そうだろう? 次はフランジェリコにしよう。ミルクでね」
そういうと、加瀬もウィスキーをぐっと飲み干して、バーテンダーにフランジェリコミルクを二つ注文した。
元は、カウンターを見つめながら、知らず息を漏らしていた。
「仕事のことかい?」
「いいえ。ちょっと、昔のことを」
「過去か。過ぎ去ってなおも残る、人間の寂しさの根源の一つだ」
俺も色々抱えちまっててね。そう言う加瀬の横顔は、相変わらずヘラヘラしている。
二つの酒が同時に届き、二人はグラスを掲げて乾杯をした。
加瀬はちびりと飲んだが、元はやはり一気に飲み干そうとした。だが流石に三杯連続はできずに、半分ほど残す。
加瀬はカウンターに肘をつきながらそれを見つめる。
「なんですか」
「いいや」
ふっと息を抜くように笑った加瀬を、元は無意識に睨んでしまう。
そんなことはどこ吹く風で、加瀬は話しだす。
「なあ、人はどうして酒を飲むんだと思う?」
「どうしてって、好きだからじゃないですか?」
「お兄さん、好きなのかい? そうは見えないけど」
「嫌いじゃないですけど」
「そうかい。まあ、俺の持論なんだがね」
肘をついたままグラスを口につけ、加瀬は口の中を湿らせた。
「飲酒はね、自傷行為なんだ」
「リストカットとかと一緒だと?」
「そうさ」
「そんな馬鹿な」
「これを飲む奴はね、大なり小なり、死を望んでいるのさ。生きることへの苦しみなんてのを感じている奴ほど、深く酔う」
「でも、酔わない人もいますよね?」
「ああいるね」
「その人たちは、何故飲むんですか」
「一緒だよ。君、酒に強い人が知り合いにいるかい?」
言われて、元は視線をグラスに逸らした。
グラスを取り、残りを飲み干してから答える。
「いましたけど」
「その人たちは、たくさん飲んだだろう?」
「そうですね、たくさん飲んで、けろりとしてました」
「酔えないから、歯止めがきかないのさ」
「どういうことです?」
「普通は酔ってしまって、それ以上飲めなくなる。だけどそういう人たちは、歯止めがきかず、死に近づく」
「酒は百薬の長と言いますよ」
「本気で信じているのか?」
「別に、信じているわけではないですけど」
「あれは酒好きの言い訳だよ。酒は全部、毒なのさ」
「毒って」
「脳を狂わせて、理性を飛ばし、それを繰り返させる中毒。君もほどほどにするといい」
「そういうあなたはどうなんですか?」
「私かい?」
「ええ」
「私も、自殺志願者だよ。臆病なね」
「それって結局、あなたがそうだから周りもそうだって言いたいんですか?」
「最初はそうかもしれないと思った。でも、私の周りの奴らは、皆そう。そうだった」
「そう、だった」
元は知らず、繰り返してしまっていた。
「君も、覚えがないかな?」
言われて、さっきの路上ミュージシャンの女性を思い出すが、その姿はすぐに、別の人物にすり替わる。
酔ったところを見たことのない、元の目には、才能に溢れているように見えていた友人の笑顔が、ふいに蘇った。
頭を振り、飲み干したことを忘れてグラスを傾けて、氷が鼻に触れた。
また、息が漏れたような笑い声が聞こえた。
「酒なんて、飲まないで済むなら、それが良いのさ」
「そうですね。本当に、そう思います」
元は脱力しながら、頬だけは綻ばせて、そしてもう一杯酒を頼んだ。
寂しさを生み出す過去の中で、一番深く残っている味を求めて。
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