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まず私を待っていたものは、覆面レスラーだった。覆面レスラーは、私がコンビニを出てきた直後に襲ってきた。
ぼんやりと買い物を終えたところへ、突然、想定外の激しいタックルを横から受けた私は、当然ながら無抵抗のままコンビニの端まで吹っ飛ばされて倒れ込んだ。頭を打たなかったのが不幸中の幸いだ。
訳が分からずに倒れていると、覆面レスラーがこちらにゆっくりと近づいてくるのが分かった。それは、まさに獲物にトドメを刺さんとするハンターの様相に感じられた。
殺される、と思った。逃げろと本能が命じる。私は勢いよく立ち上がって駆け出した。「恐怖」と「逃げる」の二つのこと以外の思考は停止していた。
必死に走ってチラリと振り返ると、覆面レスラーが追いかけてくるのが見えて、思わず「ひぃっ」と出した事のない声が漏れる。
しかし幸いにも、デカい図体のせいか、私より走るのが得意ではないようだ。このままいけば逃げ切れると確信した油断が招いたのか、私は前方へ勢いよく転倒し、顔面を強打した。
脳と景色が同じ感覚で揺れる。すぐには立てない。追いつかれる。鼻血が出ているようだが、今はどうでもいい。覆面レスラーは息を切らせながらすぐそこまで来ている。捕まったら終わり、プロレスの絞め技で呆気なくあの世へ旅立つ自分を想像した。
まだ立てない、いや立て、立てる、経験したことのないほど膝がガクガクと震えるが、それが転倒の影響なのか恐怖から来るものなのかは分からない。きっと両方だ。
なんとかヨロヨロと動き出しながら、ようやく、あの覆面レスラーは誰なんだという疑問が頭に浮かぶ。あんな体格の人間に知り合いはいない。いや、私が気付いていないだけで、過去にあの覆面レスラーに私が何かをしてしまったのだろうか、それとも誰かに雇われた殺し屋なのか、だとすれば誰だ、直ぐに何人かの顔が出てきたが、殺されるぐらいの事をした覚えはないし、そいつらはむしろ私が殺したい側のほうだと言える。
分からない。話せば分かるだろうか、何かの誤解や人違いの可能性は充分にある。
「ただなんとなく殺したかったから殺しただけです。別に誰でも良かった」法廷で無表情のまま、そう証言する髭面のレスラーを想像して、その考えを即座に捨て去った。
左手にぶら下がったコンビニ袋が目に入る。中には妻に頼まれたシャンプーボトルと、お駄賃代わりの缶ビールがひとつと、おつまみがふたつ。立ち向かう為の武器になりそうなものではない。それならば、なぜ私はこれらをいつまでも持っているんだ、走るのに邪魔になるだけじゃないか、捨ててしまえ、たかたが千五百円ぐらいだ、いや、捨てるのならばせめてアイツにぶつけてやろう、そう思って缶ビールを掴み振り返ると、覆面レスラーの生温かい息とむせ返るような体臭が私の全身に覆い被さってきた。
向こうもかなり消耗しているのだろう、わりとゆっくりとした動作で、優しささえも感じられるような締め上げ方だった。
そうして次に私を待っていたのは、頭の上に輪っかの付いた、典型的な子どもの天使だった。彼はキラキラしたオーラを纏い、微笑みながら私に質問を投げかける。
「これは、初めてコチラへ来られたかた全員にお聞きしています。もう一度だけ現世へ戻られますか?戻られませんか?」
私は思わず呆気に取られた。まさか、そんな事が可能なのか。なんてありがたいサービスなんだ、これを拒む理由がどこにあるのか、当然私には、まだまだ人生においてやり残した事は山ほどあるし、いや、そんな事よりも家族に会いたい、妻や子供の顔をもう一度見たい、私の気持ちは一気に高揚したが、ある重大な事を思い出す。
「戻るのは亡くなられた直後の状態からになります」私の心を察したように天使が言った。
やはり、そうか。たとえ生き返っても、すぐにまたあの覆面レスラーに締め落とされるだけだ。意味がない。なにか抵抗できる手は、ない。私は急にハシゴを外されたような気分になった。
「アナタは現世で、五十二回、蚊や蜘蛛を殺すことを思い止まりました。特別に、このサイコロを一度だけ振る権利が与えられます」
天使の手のひらに現れて、くるくる回転しているサイコロの五つの面には、「ハズレ」の文字が印字されており、残りのひとつは「超人」となっていた。
「文字通り、一時的に超人的な力を手に入れることができます。さあどうぞ」
天使が微笑みながら促してくる。なんという至れり尽くせり、まさかそんなオプションまで用意されているとは。もはや私には生き返ってほしいと言われているような気がした。
「ありがとうございます」私が心からの感謝を込めてサイコロを振ると、当たり前のように、ぴたりと「ハズレ」で止まった。
えっ?ウソですよね?冷や汗が噴き出る。まだ何か上乗せのオプションあるんですよね?引き攣った笑顔で、天使に無言の催促をしてみたが、優しく微笑み返してくるだけだった。
そうこうしていると、徐々に天使の顔や景色がボヤけてきた。まるで眠りに落ちる前のように意識が遠のいていく。どうやらこのまま現世に戻るらしい。ああ、マズイ、どうすればいい、
首元にかかる強い痛みで意識が戻った。覆面レスラーに締め上げられている状態だ。どうやら本当に戻ってきたらしい。しかし、このままではまた直ぐにあの天使に気まずい挨拶をしなければいけない。
私は必死の思いで手を伸ばして、レジ袋の中からシャンプーボトルを取り出し、それをとにかく自分の首や、それに絡み付いた覆面レスラーの腕に向けて、がむしゃらにプッシュした。プッシュ、プッシュ、プッシュ、プッシュ、目や口にも液が入る、プッシュ、プッシュ、意識が遠のいていく、プッシュ、プッシュ、正しいとか正しくないとかそんな事は知ったことではない、プッシュ、プッシュ、ああ、もうダメだ、プッシュ、プッシュ、プッシュ、プッシュ、良い、匂いだ、なんていう、香りの、名前だった、っけな、プッ、しゅ、、プッ、しゅ、、目の前が真っ暗になった。
ずるん。突如、私の首は覆面レスラーの腕の呪縛をすり抜けて、彼の股の間に滑り落ちた。一気に頭に血が戻ってきたせいで、グワングワンする。ゲホン、ゲホン、ゲホン、ゲホン、咳も止まらない。覆面レスラーが立ち上がり、私の頭を蹴り上げようと足を振り上げたのを目の端で捉えた。とその瞬間、彼は突然ぐるりと一回転して、ゴキンという嫌な音がしたと思ったら、動かなくなった。しぃんと辺りが静まり返る。なんとか身体を起こして様子を確認してみると、覆面レスラーは泡を吹いて仰向けで倒れていた。どうやらシャンプーでぬかるんだマンホールで足を滑らせて頭を打ちつけたらしい。まさにシャンプーの勝利。ありがとうシャンプー。もう今後はシャンプー様に足を向けて寝ることはできない。
私は救急車を呼び、覆面レスラーを運んでもらった。救急隊員によると、一命は取り留めているが、首の骨が折れているので、おそらく生涯、車イス生活を余儀なくされるだろうという事だった。もう私を襲った理由など、どうでもいいと思った。
もちろん私も救急車に乗って病院に行くことをすすめられたが、断った。とにかく今は家に帰りたい。家族に会いたい。病院は明日だって行ける。でも家族には、次の瞬間にはもう会えなくなるかもしれない。私はしみじみとそれを感じていた。そうして、ドロドロでフラフラのゾンビのような状態で、新しくシャンプーを買い直し、まさに命からがら家路に着いた私を最後に待っていたのは、大幅に帰りが遅くなってしまった事による、妻のお説教タイムだった。
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