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この“仕事”をしているとほとほと嫌になることもある。
人と直接関わることが極端に減った昨今でもやはり、人と対面しなければならない時は必ずあるもので、特にそれが仕事の場合だと、人間の嫌な一面を見ることも多い。
在宅ワークと言えば聞こえはいいのかもしれない。だが私の場合は、明らかに左遷のようなものだった。
昨今の事情で世間でリモートワークが一般的になる前に私は職場から追放されてしまったのだ。何の因果か今や個人宅のようなこじんまりとした場所で、同僚の一人と仕事をすることになってしまった。
毎日様々な人が入り乱れ、活気のあった前の職場からいきなりこんな狭い場所で仕事をすることになり、最初は戸惑ったし、我が身の境遇を嘆いた。
しかし何のことはない。すぐにこんな平凡すぎる日々にも慣れてしまった。
毎日見るものと言えば唯一の同僚の顔だけだ。変わり映えもしない退屈な毎日にも自分が慣れてしまったことに気付いたとき、たまらなく悲しくなった。
正直な話、私はこの同僚が何を考えているのか、そしてどんな仕事をしているのかすら、興味が無かった。
なぜなら私は、自分に与えられた役割を毎日淡々とこなすことこそ、義務であり仕事であると考えているからだ。
それは働く場所が変わっても、変わらない私のポリシーだ。だから嘆いてばかりもいられない。
自分でも冷めている、と思う。他から見ればもっとそうだろう。それでもずっとこうやって生きてきたのだから今さら変えることもできない。
私は毎日フル回転で働きすぎることによって、完全に忙殺されてしまっているのだと自分でも分かっている。
たしかに思い返してみればプライベートだとか余暇を楽しむなんてことは働き出してからついぞ一度も縁がなかった。
そんな私にも新米のころがあった。あの頃の私は若く、毎日が輝いていたように思う。
希望に満ちた将来が自分には待っていると信じていた。
しかし、そんな時代は決して長く続かない。どんなモノでも時間が経つにつれ、すり減って色あせていくものだ。
私の仕事は人と向き合うことが大原則ではあるが、いくら仕事だからといって私だって何をされてもいいというわけではない。人の嫌な一面を目の当たりにして堪忍袋の緒が切れそうになることだってある。
長年の経験で分かるのだが、人は第一印象で決まる。相対するモノや人へ、どう行動するかで本性が分かるのだ。
扉の開け閉め一つとってもそうだろう。乱暴に開閉するような連中は心の中の暴力的な本性まで透けて見えるようだ。
整理整頓ができない人もいただけない。やたらめったら詰め込むだけ詰め込んで整理整頓ができていない連中は生き方まで野暮ったく、雑な印象を持ってしまう。
毎日様々な人と会うと良い人ばかりではなく、こういった腹が立つ人とだって接していかなければならない。まったく頭痛の種だ。
愚痴を言い出せばきりがないが、それでも私はこの仕事をやめようと思ったことはない。
なぜなら必要とされているからだ。それは仕事場が変わっても同じだ。
かつては毎日何人もの人が私に会いに来ては用件を済ませていった。
要望は人によって様々だが、私は常に一定のクオリティを保っていたと自負している。
苦労することも多いが、それだけ仕事をこなしている実感が持てる。
結果を出せず、お払い箱にもなっていない。毎日バリバリと現役で活躍しているのがその証拠だろう。
それは同僚一人の狭い部屋で仕事をすることになった現在でも変わることのない私の仕事に対するポリシーだ。
やる気さえあればどんな仕事でもできると言う人もいるが、私は仕事に必要なのはやる気ではなく、他人から求められているという実感だと思う。
この仕事はあの人に任せよう、あの人ならやってくれるはず、といった求められている感覚が仕事をするエネルギー源となるのだ。
だから私は、どんな嫌な人と相対しても、雑な扱いを受けても耐えることができる。
誰かに必要とされていれば、仕事に励むことができるのだ。
私のことを待ってくれている人がいる限り、私は胸を張って生きることができる。
それこそ私の人生の指針だ。
そのようなことを考えていると同僚の女性社員が、私の方に近付いてきた。
そして私に手をかけ、扉を開いて言った。
「職場で使わなくなったものを貰ってきたけど、さすがにもう替え時かしらねぇ。
冷えが悪いったらない、このオンボロ冷蔵庫」
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