夜の来訪者

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 二時間の残業を終えた後に一時間弱の道のりを経て、ようやく帰り着いた自宅アパートの玄関前にうずくまる男の影を見た時、一人暮らしの女は何を感じるだろうか。まず、普通なら恐怖するだろう。しかし、その影の正体が長年片思いをし続けている相手だったら?なんらかのチャンスが到来したと歓喜する人もいるかもしれない。  宮下小春(みやしたこはる)は恐怖も歓喜もしなかった。ただただ苦々しい気持ちに胸が塗り潰され、だから敢えて他人行儀に声を掛けた。 「あの―…」  男は帰ってきた小春に気付くとすぐに立ち上がった。そうしてみれば、彼は小春の背丈より二十センチ以上も長身で。ここまで立派な体をしておいて、なぜ小さくひ弱なあれらに対処できないのか小春には全く理解不能だ。 「コハちゃん、お帰り!待ってたよ!!」  うん。ただいま。もし、あんたがただ私に会いたいってだけで来てくれてたら、そんな嬉しい言葉もなかっただろうね。小春は心の中では本音を吐きつつ、実際には「そこ、どいて」とだけ告げた。 「コハちゃんさぁ、合鍵俺にくれてもよくない?さすがに社会人の男が玄関前でただじっと待ってるのって、恥ずかしい」 「彼氏でもない男に、なんで合鍵?そんでもって恥ずかしいって思うなら、来んな。家で戦え」 「殺生な!」  小春が玄関のカギを開けて部屋に入ると、男も後から続き慣れた手つきでドアを閉め施錠した。 「俺だってさ、悪いとは思ってるよ。彼女でもない子の家に押しかけるなんて」  こうしてこの夜もまた、小春はあくまで悪意のない男の言葉に絶妙にダメージ与えられ、少し心が削られる。 「だったら、彼女の家に行けばいいでしょ」 「彼女、実家暮らしなんだよ」  ひと月前に会った時には最近彼女と別れたとか言っていたのに、もう新しい彼女出来たんだと小春は思った。まぁ、いつものことか、とも思った。 「もし一人暮らしだったとしても、言えないよ。アレが家に出たから泊まらせてなんて、格好悪くて」 「アレって?今回は何が出た?」 「………ゴキ…」  この長身でそれなりにイケメン、今日身に着けているスーツとネクタイの趣味も悪くない、道を歩けば女性の十人中七人には「いい男」と思われそうな三池悠馬(みいけゆうま)という男。学生時代を通じて成績優秀、高校時代には生徒会長も務め教師らからの覚えも目出度く、大学でもカーストの頂点を維持し、就活においては超大手企業に内定をいち早く決めたこの男は、実は日常生活に息づく害虫共に滅法弱かった。  ゴキブリ、クモ、ムカデ、ナメクジ…それらが自宅に出没するたび、悠馬は子供の頃からの知り合いである小春の家に、たとえ夜が遅かろうが明日が平日で仕事があろうが関係なくやって来た。この夜も、スーツ姿の悠馬は手に仕事用のブリーフケースを持つ他に、トートバッグも肩から提げていた。明朝、ここから出勤するつもりなのだろう。そのあたりの準備まで、とうに手慣れたものだった。 「自分で何とかしようとした?」 「したよ。見たくもなかったけど、ちゃんと狙い定めてスプレーかけて、でも、なぜかこっち向かって来んだよ、ヤツは!それで、急に方向転換して家具の裏入った後には、スプレーかけても出てこなくなるし…」 「そこまでしたんだったら、多分もう死んでるよ」 「いや、ヤツら不死身かってくらいタフだし。もし死んでたとしても、死骸と一緒の部屋にいるのはちょっと…」  悠馬は媚びた表情で小春をちらりと見た。 「明日、一緒に俺んちに見に来てくれない?」 「や・だ・よ。めんどい。しかも、明日平日じゃん」 「そこをなんとか……コハちゃん、ほら、シュークリーム買ってきたんだった。好きだよね?」  悠馬は二つの荷物とは別に、さらに手にぶら提げていた小さなコンビニの袋を小春に見せつけてきた。 「いや、お菓子なんかで買収されないから」 「これはそういうんじゃなくて、今日泊めてもらうお礼。どうぞ」  そう言われてしまえば、小春も受け取るほかない。小春は会社員になった悠馬の会社での仕事ぶりについては詳しく知らないが、恐らくこういう要領の良さを生かして上手くやっているのだろう。 「じゃ、いただきます」 「はい。あ、コハちゃん、シャワーすぐ使いたい?」 「ううん。さき使っていいよ。風呂入る気しないほど疲れた」 「はは、お疲れさま」  機嫌よさげな背中を見て、その後で風呂の戸が閉まる音を聞いて、小春は心の中で責め立てる。  追い打ちをかけて疲れさせたのは誰だ!この野郎!  シャワーの水音をうっすら聞きながら、小春は狭い部屋には不釣り合いのスリーシーターソファに背中を預け、スマートフォンを弄りながら閉店直前の割引価格で買ったスーパーの弁当を食べた。疲れ切った胃はそれ以上の食物を消化する元気もなさそうで、小春は悠馬から貰ったシュークリームは手を付けずに冷蔵庫にしまった。  しかし、これで明日のおめざができたぞ。空腹が満たされたお陰か少し機嫌が良くなった小春は、ようやく迷惑な客の為であっても動いてやる気になり、クローゼットから来客用という名目の、だがこれまで悠馬しか使ったことのない上掛けを出した。  この上掛け。不必要に大きいソファ。そして、たった今彼氏でもない男が長々浴びているシャワーにかかる、水道代とガス代。奴のお陰で、自分はどれだけの損失を被っているのだろう。  我に返りおもてなしの心を失った小春は、上掛けを床に放り、ソファに寝ころぶと目一杯体を伸ばした。そう、このソファは自分がこうやってのびのびと体をくつろげる為に買ったのだ。決して、泊まりに来るたび床に寝かせてしまって悪いななどと気にしたからではない。  小春はふと、長いなと思った。悠馬のシャワーにかける時間が、ではない。いや、確かに長いがそれは毎度のことで、そのことではなく、二人の付き合いの長さのことだ。  悠馬と出会ったのは、二人が小学校三年生の時だった。他の男子よりも一段垢抜けていた転校生の彼を、周りの他の女子と同じように小春は好きになった。彼が自分とは違う中学に行くのだと知った時には、本当にがっかりしたものだった。  高校で再会すると、彼は以前よりもさらに周囲から注目される存在になっていて、小春にとってより遠い存在になってしまった。  それが変わったのは、一年生の十一月。文化祭の準備をしていた放課後だった。たまたま、小春が教室で最後の一人としてその日の作業の片付けをしていると、その当時既に生徒会の役員だった悠馬が見回りにやってきた。そろそろ校舎が閉まる時間だと伝えられたその時、アレが出た。ゴキが。  一瞬、その嬌声が誰のものか小春はわからず、てっきり女子生徒が近くを通りがかったのかと思った。すぐ後、真実を知り憧れの三池君がそんな声を出すのかと普通に驚いていると、彼の方は必死の涙目で小春を見てきた。  ヤツを退治し、安心させてあげなければ。そう瞬時に自らの使命を悟った小春の、それからの行動は早かった。色とりどりのインクに染まった新聞紙をくるくると丸め筒状にすると、ゴキブリめがけて勢いよく振り下ろした。一回二回三回四回、既に脚をひくひくさせ瀕死の状態になっているのに向かって、念の為にもう二回、新聞紙を叩きつけた。それでもまだ、脚と触覚が震えていた。しかしその様子から、もう間もなく完全に動きを止めるだろうことは明らかだった。  ひと仕事終えた小春は静かに悠馬を振り返った。悠馬は小春を見て、「すげぇ…」とだけ呟いた。  その出来事があって以来、妙に悠馬との距離が近付いた。違うクラスでも校内ですれ違うたび声を掛けられ、部外者だというのに生徒会の雑用などを手伝わされた。  最初はなんらかの口止めのつもりなのかと訝しんだが、一緒にいる時の彼の無邪気な様子にそんな疑いを持ちようもなく、どうやら、純粋に懐かれてしまったのだった。  二人の間柄がそんな調子になっても、周囲が二人の関係を色恋が関わるものだろうと勘繰ることはなかった。悠馬にはいつも、彼に見合う注目度を有する交際相手が他にいたからだ。しかし、悠馬は相手とくっついてはすぐ別れを繰り返し、どの女子とも長続きしなかった。  その理由が、小春にはなんとなくわかった。彼はきっと、付き合う女子の前で格好をつけすぎている。弱い部分を含めた本当の自分を見せようとせず、結果うわべだけのやりとりしか出来ず、相手の心が離れていってしまうのだろう。  害虫を前にか弱い女子のようになってしまう姿なんかも見せてしまえば、もっと長続きするだろうに。少なくともそんな姿を見た後も、もう八年も好きでい続けているのだって、一人はいるのだから。 「コハちゃ~ん、寝るなら着替えてからにしな」  小春が薄目を開けると、スウェット姿の風呂上がりの男がソファのすぐ横に立ち、小春を見下ろしていた。こんな姿を数え切れないほど見ていて、しかも、相手が家族でも恋人でもないなんて、嘘みたいだ。数少ない親しい友人らに二人の関係を話すと、必ず「ありえない!」と返される。その通り、確かに変な関係だ。 「ふっ、ふふっ」 「なに、笑ってんの?」 「いや、」  本当の理由は言えず、代わりに別の話を差し込んだ。 「私、告白された。付き合ってみてくれないかって」 「へぇ……、誰に?」 「同じ職場の先輩。それで、その人と付き合うから悠馬くん、もううちに来ないでね」  小春は上体を起こすと、大きく伸びをした。ついでに欠伸まで出てきた。 「またぁ、俺に来てほしくないからって、そんな嘘」 「私なんかと付き合いたい人なんて、まさかいないだろうって思ってるだろうけど、ホント」  言って小春が悠馬の顔見ると、彼の濡れた頭をタオルで拭う手は完全に停止していた。 「そんなこと、思ってない。思ってなかったけど…」  女友達とだったら、「私が男だったら、あんたと付き合ってる」なんて ことをよく言い合う。そんな会話が成立しないのが、異性の友人だろう。 「じゃ、私、シャワーしてくる」  その場にとどまっていられず風呂場に向かった小春の背中に、小さく言葉が投げかけられた。 「ごめん、もう来ないから」  翌朝、仕事のある二人は起床後淡々と出勤の準備にとりかかった。小春は昨日貰ったシュークリームを、悠馬は冷凍庫にあった白飯を温めたのに冷蔵庫にあった卵を割ってかけ、それぞれ食べた。ついでに眠気覚ましのコーヒーを摂った後、洗面台を順に使い、二人揃って家を出た。  途中までは同じ電車に並んで立った。乗り換えの為に悠馬が先に電車を降りた。ホームに立った彼は車窓を挟んで小春に手を振った。小春も手を振り返した。  小春はいつもこの時だけは二人が恋人みたいな気がした。けれどそうしていたのはたった数秒で、悠馬はさっさと改札口へと向かって行ってしまい、それに合わせて小春も手を下ろした。  あれから、これからの話は一切しなかった。昨夜悠馬が言っていた部屋に一緒に来てほしいという件も、二人ともすっかり忘れてしまったかのように全く口にしなかった。  もう彼が家に来ることはない。会うことも、ないかもしれない。  小春の予想通り、それ以後、悠馬からの連絡は一度もなかった。そもそもが、悠馬の部屋に害虫が現われたその時だけに助けを求められるという、それだけの関係で。だから、害虫駆除の協力者ではなくなった小春に音沙汰がなくなるのも、当然のことだった。  その日の仕事も、定時では終わらなかった。小春は一時間半の残業の後、一時間弱の道のりを経てようやく帰り着いた自宅アパートの玄関前に、立っている男の影を見た。  男性にしてはやや小柄な彼は小春に気が付くと、笑顔で「おかえりなさい」と声を掛けてきた。小春は今日、彼が出張の最終日であったことを知っていた。彼のすぐ横にあるスーツケースからも、その帰りに小春の家に寄ったのだと知れた。  彼の手には、紙袋が提げられていた。彼から出張先を聞かされた時、その土地で有名な菓子店について甘党二人の話は盛り上がった。紙袋には、その店の屋号が刷られていた。 「ごめん、突然。今日中にこれだけ渡したくて。土日挟んじゃうと賞味期限切れちゃうから」  多分、今日は疲れているだとか部屋が散らかっているだとか言えば、この人はそのまま大人しく帰るのだろうなと小春は察した。いつも小春の気持ちや都合を優先してくれる、優しい人だから。  優しいだけではない。仕事では高圧的な客にも冷静に対処できるし、横柄な上司にも堂々と意見を言える、強くてしっかりした人だ。  でも、強いだけではなく、ミスの後処理にも付き合ってくれるし、仕事の愚痴も聞いていてくれる。それは付き合っている小春だけにではなく皆に対してで、誰より周りを思いやってくれる人でもある。  休日に二人で会う機会を持ったのはまだ両手で数えられる回数だけだが、デート中にイライラしたり、退屈した様子を見せたこともない。きっと、プライベートでも楽しく穏やかな時間を一緒に過ごせる人だ。  最初会った時は、パッとしない人だなと思った。今は、違う。こんなに立派な良い人に好いてもらえるなんて、自分には勿体ないことだとすら思っている。本当に心から、そう思っている。  その彼が自分勝手な動機からではなく、二人の会話に出てきた菓子を渡すために家まで来てくれた。こんな話を友達にすれば、「いい彼氏だね」と言ってもらえるだろう。その通りだ。わかっている。わかっているのに。 「宮下さん?」  鼻をすすり、涙をこらえる。まともに目の前の人の顔が見られず、俯いた顔を上げられない。 「あの、わたし……」  申し訳なさすぎて、「ごめんなさい」も言えない。”彼”でなくて、がっかりしてしまって。ごめんなさい。
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