渦の向こうで

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 私の目覚めは、布団の横で待機している飼い犬の催促によって、もぞもぞと動き出すところから始まる。 「ふわぁ…………おはよう、ジョン」  キュウキュウ鳴きながら私の腹に顔を乗せるジョンの頭を撫でた後、布団から這い出た私は、目をショボショボさせながら、台所を目指す。  顔を洗った後、水切りかごから取り出したお気に入りの赤膚焼きのマグカップにインスタントコーヒーを入れ、ドサリと音を立ててダイニングセットの椅子に座る。これが私の一日の始まりの儀式だった。 「……ふ~っ」  コーヒーを飲んでいるうちに考える余裕が出てきた私は、机の上にある一枚の小さな紙に目を向ける。それは、「佐藤 藤子様に大事なお知らせ」から始まる、予防接種のお知らせだった。残りのコーヒーを一気に飲んだ私は、汚れても良いジャージに着替え、水の入ったペットボトルとコップ、そして昨日の夕食の残り物で手早く作ったお弁当をデーバックに詰めて、ジョンと畑に向かう。まず目指すのは、草抜き用具などが揃った、畑の一画に立てられた農機具小屋だ。  私は三年前、この過疎の村へと越してきた。世間では、新型コロナの自粛から逃れる為に地方へ引っ越す人も多かったらしいけれど、私は少し違う。私は、人から逃れる為にこの村へ来た。  新型コロナの自粛が始まる一年前、私の引きこもりは始まった。  私は幼い頃から、どんなに優しい人でも、どんなに誠実な人でも、どんなに親切な学友であったとしても、私は誰かと会う事は苦手で、あの頃は話すことは苦痛すら感じていた。いつも自分と他の人達との違いを感じ取っていて、その違いを他の人達が受け入れられず、対応を間違えると私が排斥されることを理解していた。だから必死に周りに合わせて、「一般的な私」を演じる努力をしていた。それでも、他の人達からすれば、八割ほどの「一般的」でしかなかっただろうけれど。  高校に入ってからも、私は努力して周りに合わせようとした。マウンティングされないようにある程度の身だしなみは気を付けつつもダサさを演じ、不真面目というほどでもないが真面目でもない自分を考えながら、日々を過ごしていた。  ある日、私はミスをした。今考えれば大したことない事だ。でも、クラスの中で広がる失望感と怒りが、私を震え上がらせた。皆の前で謝ったし、失敗の対処もしたのだが、彼らの中の暗い炎が消えたとは思えなかった。何故なら、クラスの中で弄られていた子がいつの間にか学校に来なくなったから。彼らは贄を欲していて、次に選ばれるのは彼らと少し違う私だと、うすうす感じていた。  次の日から、私は家から出られなくなった。出なければならないと思っても足が玄関に向かわせない。それが何日も続いたある日、とうとう出ようとすら思わなくなった。周りに合わせようとする私の努力はなかなか認められず、理解されず、無駄になると思ったからかもしれない。ずっといた平均台の上から転げ落ち、苦痛で蹲ったような状態の私を、娘は地面の上を歩いていたと思っている両親が理解してはくれなかった。  孤独で、虚しさと無気力に襲われる日々。遮光カーテンで締め切った自室で過ごしていた時に、新型コロナの騒動が始まった。  両親も友達も良い人も悪い人も、皆引きこもりになった。私と同じように。  いつも家にいるようになった両親は、たえずイライラするようになった。私を心配していた声が小言へと変わった。家の中は雨風の吹き込まない洞窟から、嵐で吹き飛びそうな小屋へと変化しつつあった。それでも気力の沸かない私は逃げる事ができず、布団の上で呆けながらテレビを見ていた。新型コロナの情報で世界は混乱し、恐怖していた。映し出される街には人がいなかった。私を苦しめる人はいなかった。ふと、思った。外へ出てみようと。  両親が寝たころ、最低限の身だしなみを整えた私は、財布を持って玄関へと向かった。しばらく履いていなかったはずの靴は、抵抗感なく私の足を収めた。少しの間、立ち尽くしていたが、気合を入れて回したドアノブはあっけなく開いた。私は外に出た。当然、暗い。  震える足でキョロキョロしながら歩いていたが、誰にも見られず、誰の声も聞こえず、私は家から二百メートル先にある自動販売機の前にたどり着いた。動悸を抑えながらペットボトルのコーラを買い、それを抱えて必死に家へ向かった。  自分の部屋に戻った私は、扉を閉めて、崩れるようにベットの上に倒れこんだ。未だに震える手には、冷えたジュースが握られている。それを見た途端、ものすごく嬉しくなり、クスクスと漏れ出た笑いはやがて腹を抱えるほどの大声となり、両親を飛び起きさせた。  私は分かったのだ。自分は社会に適応できないのではない。人のいる社会に適応できないだけだと。外に出たかったら、人のいない場所に行けばいいのだ。仕事をしたかったら、人のいない場所で働けばいいのだ。人のいない場所は誰もが孤独になるだろうが、私は人のいる場所でも孤独なのだ。ならば、誰もが平等に苛まれる場所に私は行きたい。手の中のコーラは希望の光だ。私は少しぬるくなったそれを、少しずつ味わって飲んだ。  それから私はまた頑張りだした。新型コロナでオンラインに切り替わった授業に出て、一年遅れたが高校を卒業し、ワクチンを接種した。その頃、田舎で一人暮らしをしていた伯父が腰痛の悪化で老人ホームに入ることを決めたので、私は両親を説得して家と畑の管理を引き受けた。伯父と入れ替えに慌ててやってきた家には、犬である雑種のジョンがいた。彼は人ではないので、私が無理に合わせる必要はない。私は新しい孤独を覚悟していたのに、ジョンと出会ったことで孤独ではなくなった。  今、家庭菜園のような小規模の畑と農家の管理、広大な敷地の草むしりが私の仕事だ。世間知らずの引きこもりだったド素人がいきなり農業をできるはずがない。伯父もそこは期待していなかったようで、ジョンの世話と家の管理だけ望んでいた。だが、街育ちの私には土じりが面白く、自産自消の範囲で野菜を育て始めた。妻子を亡くした伯父は、まさか私が農家を継いでくれるとは思ってはいないようだが、それでも農業に興味を持った私に腰を痛めて入院していた時もZOOMで指導してくれた。見舞いに行くたび、顔が生き生きと明るくなっていくのが不思議だった。  退院後、農作業を出来るほどには回復できなかった伯父は、そのまま老人ホームに入ったが、解らないことがあれば今も聞きに行く。  今はまだ親の仕送りを受け取っているが、減らしていけるように畑の規模を広げたいと考えている。  あれから三年、私は村の住民と少しずつ顔見知りになっている。この村は高齢化で人口が少しずつ減少していて、住民で私が一番若い。足腰の悪さと新型コロナのせいであまり人のいない道は、私が無理せず歩ける場所だ。最後の村民になったとしても、きっとあの頃よりも笑顔で過ごしていける。    畑の側で弁当を食べていた私は、久しぶりに育った街のことを思い出す気持ちのゆとりに、クスリと笑いながらコーラと書かれたペットボトルからの水を飲んだ。  人から見れば、私は田舎に逃れた敗者に見えるだろう。でも私を待っていたのは、期待すらしていなかった気持ちを得る日々だった。
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