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彼と別れた後、私は村の湖の畔へとやってきた。湖の周りを歩いていると、宿屋の店主と出会した。
「おや、高野さん。あんた、まだこの村にいたのか」
「嫌ですね。まるで私が厄介者みたいじゃあないですか」
「宿泊客から苦言が出とるんだよ。疲れているところにペラペラと語りかけてくるとね」
「酷いですね。私はただ、お話が好きなだけですのに」
私がそう言うと、店主は大きくため息をついた。
「ええ、ええ。分かりました。あと数日したら去りますよ……あと数日は居させていただきますが」
私がそう告げて、足を踏み出そうすると、店主が「足元!」と声をあげた。
その声に足を止めると、私の足元には一匹のカマキリがいた。
私の足が頭上にあるというのに、カマキリは逃げようともせず、静かに佇んでいた。
自分の頭上で起きている大きな出来事など、ちっぽけな生物には気づくことさえ叶わないのだろう。
私は足を引いて、店主に向き直った。
「ありがとうございます。あやうく踏み潰してしまうところでした」
私は辺りを見渡した。よく見ると足元だけでなく、すぐ先にも、そのまた先にも、何匹ものカマキリの姿が見えた。
「……カマキリが多いですね。産卵の時期でしょうか」
「それもあるが、ここは湖があるから、そのせいかと」
「湖があるとカマキリが増えるのですか?」
「湖というか、水辺だな。『ハリガネムシ』というものを知っているか?」
「聞いたことがあります。どのような虫でしたでしょうか」
「寄生虫だよ。その名前の通り針金のように細く、カマキリの体内に入り込む。そして入水するよう、内側からカマキリを誘導する。水に入ったカマキリはもちろん、死んでしまう」
「洗脳、ということでしょうか」
「まぁ、そういうことだな。カマキリは知らずに入水自殺させられるのだから、不憫なものだ」
私は再びカマキリを見た。
カマキリは相変わらず、その場から動かない。
「…………ハリガネムシは人間に寄生したりするのでしょうか」
「いや、カマキリだけだよ」
「そうですか、安心しました。自分が気づかないうちに溺死するよう洗脳されていたら、たまったものではありませんからね」
「確かに。それは恐ろしい」店主は笑いながら言った。「しかし世の中には、まだまだ未知の生物がいるから。人間を洗脳するようなものも世の中にはいるかもしれんぞ?」
「それは恐ろしいですね。もし洗脳されていたとしたら、自分の意識にあると思っていたものが、実は自分のものではない、ということになるのでしょうか。
しかし自分では操られていることにさえ気がつけないのですから、きっと恐怖を感じることも……」
ポチャン、と水の音が響いた。
カマキリは、もうどこにも見当たらない。
湖上には、波紋が静かに広がっていた。
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