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「何悩んでるんだ?」
その日も残業で帰宅したのは日付を跨ごうとした頃だった。
夕飯のカレー鍋を片付けた奈央子は、僕が風呂に入っている間もずっと家計簿とにらめっこしていたようだ。
風呂に入る前と後と、ほとんど変わらない姿勢で、椅子の上で正座しながら、鉛筆でこつん、こつん、と頬を叩いている。
「んー?如何にして節約していこうかってのをね。今月も赤字だもん」
僕は背筋にピリッと電気が走ったような緊張を覚えながら「へぇ」と感情の無い相槌を返した。
今月も。今月も、赤字。
その言葉が沼のように濁り切った頭の中を、鈍い虹色の毒々しい油となって、どろりと渦を巻く。
いや、そんなの当然じゃないか。
奈央子は贅沢も出来ない暮らしにも文句も言わずに頑張ってくれてるんだ。
もっと頑張らなきゃいけないのは、僕なんだ。
「エアコンも設定温度上げなきゃね。知ってた?風量って自動にしたほうが良いんだって」
「そうなんだ。知らなかった」
「食費も削れる分は削りたいよねぇ。あ、颯太。来月の私の誕生日とか何もいらないからね」
「え?」
いやいや、誕生日くらいはちょっと良いレストランでも予約しようかと思っていたんだけど。
奈央子は顔の前で手をひらひらと動かす。
「あ、やっぱり何かくれようとしてたでしょ。颯太は優しいからなぁ。良いから良いから。いらないからさ、大事にとっておいてよね」
僕は奈央子の誕生日すら祝ってやれないのか?
ごめん、奈央子。ごめん。
もっと頑張らないと。
奈央子に笑っていてほしいのに。
一緒にいて良かったって、思ってほしいのに。
「大事な話があるから」
翌日の仕事中に来たメッセージに、今度こそ背筋が凍った。
頭がくらくらする。
別れ話だったとしても、僕に文句を言える筋合いはない。
「おい、風早。こっちの書類も頼む」
「は、はい」
「風早。この明細、今月の分合わないんだけど。ちょっと見てくれる?」
「わかりました」
「風早。次の土曜日、向こうさんとゴルフだから。お前も来い」
「はい。わかりました・・・」
もっと、頑張らないと。
もっと
もっと。
「3番乗り場を、電車が通過します。黄色い線の内側にお下がりください」
瞬く間に迫る電車のライトに、僕は飛び込んだ。
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