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「奈央子」
ベランダで空を見上げる奈央子の黒い毛先が夜風にうなじを撫でる。
じっと何かを祈るように。
届かない僕の声は、虚しく霧散してしまう。
「あの日、帰って来なくてごめん」
奈央子は変わらず白い息を吐き、月明りを受けた頬は透けてしまいそうな程に白く、僕がそっと手を触れても表情一つ変えない。
心の奥深くに鉛の塊がごろりと転がる感覚を覚えて、奈央子から顔を逸らすように空を見上げた。
自分が死んでいるという事実は、やっぱりまだ受け入れきれない。
だが、こうして奈央子には俺は見えていない。
「奈央子はずっとこの家で暮らしてきたんだな」
仕事、人間関係。目の前の事に逃げ出した僕と暮らしたこの家で。たったひとり。
「ほんと最低だよね」
僕の言葉に答えたようなタイミングに思わず顔を上げたが、独り言だったらしい。
「颯太ー。聞こえてますかー」
くるりとベランダの柵を背にして、きょろきょろと見回す。
僕の方を見ても合わない視線は当てもなく宙を彷徨い、やがて胸元に掛けたペンダントに視線を落とした。
「大事な話があるって言ったのに。なんで自殺なんてしちゃうのよ」
鼻をすすり、ぐっと唾を呑み込んで「あーあ」と漏らした。
「私が1番最低だけど。ごめんね、颯太」
星が瞬く空を、細く繊細な光の筋が緩やかな弧を描いた。
「だからせめて。颯太が残したもの――」
奈央子がハッとしたように顔を上げた。
階段を挟んだ向かいの部屋の、建付けの悪い引き戸が、ぎこちなく開く。
「ママぁ、一緒に寝るのぉ」
「ごめんごめん、ほら。寝ようね。幼稚園、寝坊しちゃうから」
脱いだコートをハンガーに掛けて鴨居に引っ掛けた奈央子は、桜色の頬を膨らませて拗ねたように口を尖らせた女の子の元に駆け寄った。
「おやすみ、沙也」
奈央子の優しい、愛おしむような声が、夜の静謐に溶ける。
音の無い静かな空に、ひとつ、またひとつと星が降り注いでいた。
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