廊下の向こう側

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廊下の向こう側

 今朝出社すると灰色のコンクリートのビルの三階にある事務所の入り口の扉の開け放たれて長い廊下と室内の一続きになっていた。夏の終わり省エネのために冷房運転は止められたけれど居座り続ける暑さのために窓という窓や扉を開放したようだ。部屋に入ったところで振り返り見る長方形のビルの中廊下は随分と長く反対側の突き当りは仄暗い。久しぶりに目にする見慣れた懐かしい風景。その前に立つと何故か凝視したまま動けなくなる。昔むかしの子供の時分からずっと続いている。田舎の家の仏壇のある座敷の横で壁に塞がれた中廊下の昼でも薄暗い突き当り。放課後の学校に忘れ物を取りに戻った時の誰もいない夕方の長い廊下の端の方。灯りの点った長く細く真っ直ぐに延びる商店街の果ての宵闇に沈む住宅街。そんな場所の端に佇立して薄暗い突き当りを眺める時そこは不思議な世界との出入り口に思えて仕方ないのだ。  「リングに向かう長い廊下を・・・」アリスのヒット曲のチャンピオンを聴いた時に薄暗い廊下の先に眩く光の輝く異次元の世界を想像した。しかしその目も眩む光の国は果たして天国なのか地獄なのか。ただ廊下の端に立ち止まって数々の仄暗い突き当りを凝視してきた来た今の今までその向こうの世界の窺い知れたことはない。暫くそこに佇んではそのうち歩き出して遠ざかって来た。しかし廊下はまるで幾つもに分断されているかのように思いがけない所にゆくりなく出現する。いつか終わりの廊下の現れてその突き当りを通り抜けるのだろうか。廊下はどのくらいの長さなのだろう。幾つに分断されてもやはり一続きなのだろうか。窺い知りようのないその向こうの世界の不安と怖れをふと忘れてしまう日常に気の付くと廊下の端に立って仄暗い突き当りの闇を凝視している。闇は現世の外にあるのだろうか。それともそもそもその闇の中に存在していて稀に外側から眺めるような場所に立つのだろうか。考えてみればいかにも仄暗い闇は日常に存在する。ぬばたまの夜の空を渡る月のように存在を知らしめることなど到底できはしない。よしや満月の真情を吐露し得る言葉や歌を紡ぎ得たとしても裏側までも遍くあからさまにすることなど出来はしない。廊下の奥の仄暗さはそういう後ろ暗さなのかもしれない。  現世の間に人の変わり様というものは成程たいした幅ではなさそうだ。入り口近くの端の方に立って眺めていた時には随分と遥々長く感じられ反対側に辿り着くころまでにはなにもかも全く変わってしまうと思われても振り返り見る所まで来てみればあの頃と大して変わらずにその道程の長さなど測りようもなく思われる。昔に戻ることなどいとも簡単にいつの日常にも起きてしまう。薄暗い壁の突き当りの向こうはいつまでたっても闇なのか光の射し込む世界なのか判然としない。気の付けばあの廊下の端に佇立している。そしてそこはかとない不安を感じて怯えている。この不安と畏怖は弱さに起因するといつの頃からか思い込んでいたけれどそう簡単でもなさそうだ。現世に持って生まれた脆弱な心身は歳を重ね鈍感の増すにつれ幾つもの数えきれない失敗と悔悟の積み重なるにつれ首を垂れながらもトレーニングを継続するにつれ少しは克服の感触の生じて来ている。しかしその不安と畏怖の消えることはない。どうやら壁の向こうはこちらの時空と交わるものではないのかもしれない。そこに行く廊下の端に立って仄暗い突き当りの壁の向こうに世界の感触は仄かに感じ取れるけれど往来することはとてもできない。  現世にはそんな空間の遠近に当たり前に存在しているのに元気に暮らしている限りはそのすぐ縁まで近づいても気づかないのだろう。でも何かしら気配は感じるものだ。そこはもしかしたらキラキラ星の光り輝く遥かな天空の世界の入り口なのかもしれない。    流星群の出現したある夜の次の日のこと。あれは白昼夢を見たのだろうか。    朝の職場でカレンダーを見ながら今日は大安だとみんな喜んでいる。なるほど今日は大安だと素直に嬉しくなった。しかしどうして大安の日のそんなに嬉しかったのだろう。少し気には掛かりながらもどうしても思いだせないもどかしさを抱えたまま普段より華やいだ気分で午前の時間は過ぎて行く。昼休みを告げるチャイムの鳴った時に大安の日は時間の過ぎるのも早いねと遠近で弾んだ話し声の聞こえて来る。そして昼食を取りに思い思いに一人であるいは二人三人と連れ立って出掛けて行った後の職場には数名の残るだけとなった。室内は節電のために消灯されて薄暗い。弁当を食べようとしているとがらんどうの室内に廊下の方から明るい光の筋の差し込んで来た。なんだろうと不思議に思い入り口の方に行ってみる。扉は開かれたままだ。そしていつもは暗い闇に沈んでいる長い廊下の突き当りの眩く光り輝きこちらにまで光の差し込んでいる。なんだ。あの壁は開けたのか。四階建てのこのビルの突き当りの廊下の先は1階だけは出入り口の設けられていたけれど二階から上は外壁で完全に塞がれて階段もなかったはずだ。しかし突然に光の中から二人三人と人影の出て来て廊下をこっちへやって来る。さらに続いて四人五人六人と出てくる。いや。本当に人だろうか。姿形は確かに人に見える。けれども人ではなくただの影。その影のまるで人のように動いている。そんな違和感の次々と影の出てくるにつれ増して来る。眩しい光を背にしているからかもしれない。けれど廊下に少し浮いたような素早い動きは人の敏捷性の到底及ぶものでない。その素早さでもって影たちはこちらに近づきながら途中にある部屋に順番に入って行く。顔はもちろん腕も足も見えず人肌の色も浮かび上がらない。光の中から出てくる影だけの人は途中の部屋に二人三人と入り込みながらこちらに近づいて来る。そして遂にこの室内にも飛び込んで来た。そしてすぐ横を通り過ぎて薄暗い室内に溶け込んだかのように気配の消えてしまう。擦れ違った時にはもちろん顔も体も見えずただの黒い影にしか見えなかった。もしかしたら黒い布をすっぽり被りローラースケートでも履いた人だったのだろうか。それならばなんのために仮装あるいは変装しているのだろう。  この階にあるすべての部屋に二三人の影の入り込んでしまうと廊下の奥の眩い光源はみるみる色あせて消沈してしまい跡には暗く鎖された闇の空間を重く圧している。奥に近い部屋から頭部も体も手足もはっきりと人間の姿を認められる一人の人の出てきてセンサー式の照明の弱々しく柔らかい人工的な灯りに突き当りの壁の照らし出された。その人の壁際にある階段へと姿を消してしまうと照明の消えて壁はまた暗い薄闇の中に埋もれてしまった。その闇を前にして佇立して動けないままふと思い出した。あの影のような人たちあるいは人のような影たちは部屋の中に入って行ってそれから一体何処へ行ったんだ。何をやっている。もしかしたら大変なことの起きてしまったのかもしれない。そう思えば怖がらなければいけないのかもしれない。しかし不思議と畏怖も不安も感じてはいない。それどころか非日常的で空想上の物語のような出来事との遭遇に正直ときめいてわくわくしている。そうか今日は大安だった。なぜか突然に思い出して安心した。振り返り見る部屋の中は静まり返り昼休みをそこで過ごす数人も異変に騒めく様子は微塵もない。彼らはあの影に気づかなかったのだろうか。一応尋ねてみようと話しかけると言葉の出てこない。いや。正確には会話のできる言葉を発せられないのだ。普通に話す言葉はもちろんあるのにそれでは通じないと何故か判っている。今日は大安だった。いつもの言葉では昼休みの彼らにも通じない。彼らはまるで影のように遥かに遠いところに自身を浮遊させてここにはいないかのようだ。まさかあの影の乗り移ったのではないだろうか。そんなことをふと思う。しかし確かめようにも術はない。それにロッカーの隅だとか机の下だとか奥の倉庫だとか影の入り込みそうな場所はそれ程広くはないこの部屋の中にも数えきれずにある。とても探しだせるものではなさそうだ。振り返り仄暗い廊下の端を眺める。つくづく不思議に満ちた謎の空間だ。しかしセンサーライトに照らされれば何でもない日常にあるただの壁に過ぎない。  出かけていた人たちの二人三人と戻り束の間の昼休みは瞳を閉じて何一つ普段と変わらない物憂い午後の時間の進み始めた。薄暗かった室内を照らす人工の光のどこか脆弱に思える。もうあの影のような謎のもののことは忘れよう。なにしろ今日は大安なんだから。だから誰にも言わずにおこう。どこか弱々しく思えた室内を照らす人工の光の秘蔵する穏やかな温もりの伝わって来るではないか。  電話の応対に困った人の誰にともなく室内に聞こえるような大きな声で訪ねている。 「安倍さんという方からお電話ですけれどどなたかご存じありませんか。」 「ここで働いている安倍だとおっしゃっています・・・」 そんな人いたかな。いや知らないよ。昔働いてたのかな。聞いたことないよな。ただ首を捻るばかりでこの部屋の中の誰も安倍さんを知らなかった。 「それでご用件はなんですか。」 「はい。戻りの少し遅れるということです。」 「今どこにいるんですか。」 「壁の向こうだそうです。」 いかにも判然としない電話ではあった。 「ああ。そうですか。わかりました。」 しかし誰かのそう答えると室内の誰もかれも成程そうだと納得した。確かにそうのなのだ。いささかの不思議さも不都合も感じないことに懸念は残しつつも納得している。それにしても今日の室内は穏やかで優しい気分の満ちている。これはいつものことなのか今日に限ったことなのかはよく分からない。昨日はどんな風な感じだったのか。今日と同じだったと言えるだけの自信はない。いつもはこんな風ではなかったと心持ち考えてみたりもする。怒り争う声。誰かの悪口を言う小さな声。あからさまな拒絶反応と無視。今日の気分とはあまりにもかけ離れたそんな情景も日常に身近であったような気もする。しかし今日は全く平和で穏やかで優しい。そうか。今日は大安なんだ。  室内には毎日顔を合わせているお馴染みの人たちの居る。しかし。あ!あの人の名前はなんだったかなあ。確か高市さんだったはずだけれど間違いなかったかな。あれ!あの人は・・・確か山上さん。いや。そうだったかなあ。まるで昨日と今日の間に暗いトンネルのあって途中で本当に繋がっているのかどうか分からなくなったような不思議な気分だ。成程ここに安倍さんの戻って来ても違和感を抱くこともなく何の不都合も生じないだろう。今日はなんだか本当に良い日だ。みんなこんな風に過ごせる大安は本当に良い日だ。  机の上に身を屈めて作業をしていた高市さんのゆくりなく顔を上げ背筋を伸ばした。その時背後に蠢く影の見えたような気のした。それは高市さんの身体の影とはどうしても思えなかった。そもそも昼間の室内の天井からの照明で目につくほどの影など出来ていただろうか。高市さんの身体の背後に張り付いてはいるものの別の意志を持った存在としか思えない。嫌な予感のして少し怖くなった。しかしその影は一度気配を現しただけでその後は一向に感じられなくなった。相変わらず穏やかに大安の日の過ぎて行く。  「遅くなりました。」 一人の男の部屋に入って来て躊躇うこともなく一つの机に座った。ああ。安倍さんなんだ。どこかに不思議な感じは残しつつもそうなんだと合点している。室内にいるほかの人も何も言わず小さく頷いている。本当は誰だか分からない安倍さんのはずなのに室内は変わらずに穏やかに時の刻まれて行く。今日は本当に優しくおおらかな気分のまま過ぎて行く。そう思いながら窓の外を眺めるとなんと早くも陽の傾き遠い山際に落ちかかり始めている。おかしいなあ。時間の経つののいくらなんでも早すぎないか。こんな時間ならいつもはもう帰る準備もできてそろそろ席を立つ人の姿も目立ってくる。ほかの人もまるで気づいていないようだ。夕方の忙しないざわめきなど忘れたまま平然として机に向かっている。室内の照明はいつもより暗く不安な気分を催し始めた。しかし窓の外はみるみる日の暮れて夜の帳の降りてしまった。照明に照らされた部屋の中のいかにも心細い。それなのにまだ誰も動こうとしない。いや。よく見ると微動だにしていない。もしかしたらもう誰もいないのじゃないか。そんなことをふと思う。そこいる人。いるはずの人たち。みんなどこへ行った!まるで生気を宿していない抜け殻の机に向かっている。その中でただ一人だけ動いている人の居る。遅れて戻って来た安倍さんだ。そう言えば安倍さんは電話で壁の向こうにいると言っていた。そこはどこなのだろう。昼休みに部屋に入り込んできた謎の影たちもいつもは壁ある辺りの眩しい光の中から出て来た。安倍さんは落ち着きなく立ったり座ったりしている。せわしなく周囲を窺い見ながら苛立たしさも露に周りの誰かに指図している。なにか大きな声で叫んでいるけれど全く聞こえない。もしかしたらあそこは見えない壁のむこうなのだろうか。そう思った矢先だった。安倍さんの視線のこちらにいきなり向けられた。なぜか怒りを含んだ敵意に満ちた目。どうしてそんなに怒っているのだろう。何にそれ程苛立っているのか。さっきまでこの部屋はいつにもましてあり得ないほどの穏やかで優しく大らかな気分の満ちていたではないか。そしてそれは安倍さんを受け入れてさらに安穏の時間の進み始めたように思われたのではなかったか。なのに何故あなたはそれ程までに怒りと敵意を露にしてしまっているのだろう。  安倍さんは部屋の中の誰かにせわしなく指図を繰り返した。それは恐らく攻撃を命じる命令であった。安倍さんの張り上げる声の始めてはっきりと聞き取れた。いかにも軽佻浮薄な口先だけの上ずった甲高い声だ。 「こんな人たちを受け入れる訳にはいかない!」 「こんな人たちを認めることは到底できない!」 「第一こんな人たちに負ける訳にはいかないのだ!」 何を言っているのだろう。しかしその怒りは明らかにこちらに向けられている。もう部屋の中には抗おうと立ち上がる人はいない。机に向かったまま微動だにしない人の背後を安倍さんの背後から出て来た影の幾つにも分身して張り付き始めた。立ち上がって本当の意思を示そうとする人たちの拘束の始まった。そして部屋の中の人の気配の不存在を入念に確かめると安倍さんの醜く膨らんだどす黒い顔はさらに膨張を続け立ち上がったその姿は沸き上がる黒い雷雲のように天井に昇り詰めた。その黒い影の中にギラリと光る赤い目のこちらを見下している。そして右手に握りしめた鈍く光る刃を振り上げた。 「ギャア~」 その刃の振り下ろされた瞬間に甲高い悲鳴の部屋中に響いた。  物憂いいつもの午後の時間の穏やかに続いている。  黒い巨大な影の中から刃の振り下ろされた恐ろしい瞬間はまだ生々しく記憶に残っている。しかしその瞬間に部屋の中のどこからか三つの影のようなものの超人的な素早さで廊下へ走り出して行くのを見たような気のする。直後に部屋の中は眩しい光の差し込んで昼間の戸外よりも明るくなった。そして黒い影は全て水泡のように跡形もなく消えてしまった。  「あのう。だれか安倍さんって知っていますか。」 いつものように忙しそうにざわつく部屋の中で机に向かう生気を取り戻した人たちは誰も安倍さんを知らなかった。 「ここで働いていると言っていたのですけれど。」 それでもやはり誰も安倍さんを知らなかった。  あれは安倍さんではなかったのだ。勝手に安倍さんだと思い込んでいただけなのだ。恐ろしい黒い影に変身するなんてあり得ないことではないか。  穏やかな午後の時間は流れ続けている。  
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