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秋一郎に握られた手をぎゅっと引き寄せられた。カウンターから身を乗り出した彼の顔がぐっと近付く。もう片方の手が、そっと冬真の頬に優しく添えられた。
視界いっぱいの秋一郎の瞳に、熱を感じた。この状況で何されるか分からないほど鈍感ではない。彼のしたいようにさせようと目を瞑った、その時。
——カラン、コロン。来客を知らせる、ベルの音。
「いっ! いらっしゃいませ……!」
客はいつだって空気を読まない。慌てて秋一郎を引き剥がし、仕事モードに切り替えた。
「こんにちは、冬真くん」
「どうも。今日は四人?」
「四人です」
「じゃあ好きな席どーぞ」
店に入ってきたのは常連の主婦の方々。見られたのではないかと気が気ではなかったが、彼女たちのいつも通りの態度を見て、ほっと息を吐いた。よかった、たぶん見られていない。
注文をとってカウンターに戻ると、膨れっ面の秋一郎が頬杖をついていた。邪魔された、と不満を全面に出した姿が可笑しくて、冬真はクスリと笑った。
「ガキかよ」
「だって……冬真さんと、キスしたかった……」
大人になったなと思っていたが、不満気に口を尖らせるその姿は、やはり少し幼く見える。
秋一郎のそういう姿は、冬真の中の兄心を酷く擽る。不貞腐れた栗色の頭を、わしゃわしゃと撫でてやった。
「わっ、ちょっと、冬真さん!」
「仕事終わったら、お前ん家行くから。待ってろ」
「……っ、うん!」
二人きりになりたかったのは秋一郎だけではない。もちろん、キスしたかったのも、秋一郎だけではない。冬真だって、彼と同じ。だって、秋一郎のことが好きなのだから。
先程までの膨れっ面が嘘みたいに、秋一郎はキラキラと顔を輝かせている。本当に単純なやつだ、と冬真は笑った。
秋一郎は、大事な人を作らないと決めていた冬真の心の壁を壊し、いつの間にか大事な人になった。冬真の大事な人はみんないなくなってしまうが、秋一郎は違う。彼は帰って来てくれる。絶対帰ってくると、約束してくれた。
ずっと長い間、一途に愛してくれた秋一郎なら、約束を守ってくれると信じられる。だから冬真は、彼の帰りをここで待つことにした。
離れていたって、好きなことは変わらない。秋一郎が大事な人だという事実は、変わらないのだ。
おわり
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