オメガ社長は秘書に抱かれたい

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 周期を鑑みても、明らかにまだヒートになる時期ではない。美弥子の冷静さと慈愛を含んだ笑みを思い出し、奏はゾッとする。  思えばあの美弥子の父親は、本当に自分との見合いを承諾していたのだろうか。美弥子の目的は知らない。が、やはりヒートを誘発する薬か何かを盛られたと考えるのが妥当だろう。  奏は崩れそうになる膝に力を入れて体を支えた。本当は高辻に手を貸してもらいたかったけれど、触れればこちらの決意が揺らぎそうで怖かった。 「……悪いが、抑制剤を買ってきて、もらえない……っか」  奏は肩を抱き、湿り気のあるため息を漏らしながら頼む。 「私が薬局に走っているあいだ、お一人でどうするおつもりですか」  「ど、どこかに……隠れてる……、から」 「そのような濃いフェロモンを垂れ流して、本当に隠れられるとでも?」 「わ、かんな、い……けど……っ」  はあ、と苛立たしそうに高辻が息を吐いた。 「今の状態のあなたを、一人にできるはずがないでしょう。病院に行きましょう」  高辻にグイッと肘を引っ張られる。触れたところからビリッと電流が走ったような感覚が伝わり、奏は思わず高辻の手を弾いた。  こんな風に高辻の手を拒絶したのは初めてだった。自分でも自分の行動に驚いたが、高辻はもっと驚いたようだ。見開かれた目が、奏と弾かれた手を交互に見る。 「……病、院は……行きたく、ない……」  高辻は奏に拒まれた手でギュッと拳を作った。綺麗に切りそろえられた眉根が歪み、見るからに不愉快そうだ。  高校以来、久しぶりにゴミ置き場で再会した高辻の雨に濡れた眉は、ボサボサだった。そんなところも、いいなぁ好きだなぁ、と思いつつ、奏は目の前の男に見惚れたものだ。 「なにを子どもみたいなことを言ってるんですか。まさか注射が怖いだなんて言わないでくださいよ」  高辻が呆れたように前髪を掻き上げる。  何も考えられないくらい体は欲情しているのに、高辻のことを好きだと想う気持ちだけは、いつだってくっきりと輪郭が濃い。  奏は乾いた笑みを浮かべて「そうだよ」とつぶやいた。 「僕は、注射が怖い……子どもの頃、血管が細くてな……っ見えづらかったらしい。打たれる時には看護師によく失敗されたよ。だから今でも、注射が怖いんだ……」  自嘲気味に笑って見上げると、苦渋の表情で見下ろす男の目と目が合う。  所詮子どもの頃の他愛ない話だ。どうして高辻がそんな顔をするのか、分からなかった。  次の瞬間、伸びてきた高辻の手に腕を掴まれた。えっ、と驚いているうちに、高辻は奏の腕を引っ張って並木道を外れた。  男の急な行動に困惑しているうちに連れ込まれたのは、近くの茂みだった。そこは背の低い広葉樹を中心として円を描き、低い雑草の生い茂る場所だった。  伸びっぱなしの芝生のような地面に、奏は押し倒された。服越しに冷たい湿気が伝わる。  見上げると、西日を覆い隠すほどの葉が、高辻の後ろで風に揺れていた。思いのほか冷静な自分が不思議だった。 「……何がおまえの気に障った?」  奏は自身に覆いかぶさる男に尋ねた。  高辻は怒りを湛えた目で、奏を見下ろした。 「注射が苦手で病院にも行けないΩの雇い主に、呆れたか?」  奏がふっと笑うと、高辻は「違う」と強い口調で否定の言葉を吐いた。 「あなたが……っあんたが自分の価値を分かっていないことに、俺は腹を立てている」  芝生に押し付けられた両手首が痛い。 「……おまえが『俺』って言うの、久しぶりに聞いたな」  言うと、被せ気味に高辻が続ける。
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