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高辻ほどできる秘書はいない。けれど、奏はこの男ほど仕事に私情を挟む人間を、ほかに知らないからだ。
奏が社長椅子に乱暴に腰を下ろすと、高辻は社印を奏の右手近くに置いた。
「αの私には、どうせあなたの気持ちがわからない――と言いたいのでしょう。ですが私はあくまでもあなたの体と仕事の兼ね合いから、ピルの服用を勧めているんですよ」
「……ピルは飲みたくない」
我ながら駄々っ子のようだと思う。だが、飲みたくないものは飲みたくないのだ。高辻はあからさまに呆れたようなため息をついた。
「言っておきますが、何度ねだられようと私があなたを抱くことはありません」
こちらの魂胆なんてお見通しというわけか。
ヒートが訪れる時期になると、高辻はわざとその時期に奏のスケジュールをいっぱいに詰め込んでくる。そして、奏にピルの服用を勧めてくるのだ。
ピルはヒートの時期をコントロールするだけでなく、服用中はフェロモンの濃度を薄めるし、ヒート時の吐き気や心身の性的疼き、食欲減退などの重症状を軽減する効果がある。何より妊娠する確率もガクンと減る。
現代においてピルを服用することは、スポーツ選手だけでなく、キャリアを積みたいと考えるΩにとって必需品なのだ。奏の知り合いにもΩの経営者が数名いるが、みなピルを積極的に活用していると言っていた。
それでも……奏はピルを飲みたくなかった。
「だんまりになられても、私はあなたの秘書です。要望にお応えすることはできかねます」
奏を見下ろす目は、冬の夜空に感じる風より冷たい。
「二人きりの時ぐらい……昔のように呼んでくれたっていいじゃないか」
「いえ。雇われの身として、あなたを呼び捨てることはできません」
奏は目の奥がツンと痛むのを感じる。何度断られても、しつこく同じことを口にしてしまう自分に呆れる。
奏が高辻と出会ったのは、十三年前の春。奏も高辻も、高校一年生だった。奏はその当時から高辻に恋をしている。
高辻に自分の会社に来ないかと誘ったのは、五年前のことだ。高校の同級生から秘書と社長という関係になった今も、不毛な感情を、この男に抱き続けている。
一度でいいから、高辻に抱かれたかった。後悔されてもいい。軽蔑されてもいい。自分のフェロモンに当てられた高辻に、めちゃくちゃにされたかった。
ヒート状態に乗じて「抱いてくれ」と頼んだのも、一度や二度の話じゃない。こちらの想いを知っている男に断り続けられ、最後は抑制剤を打たれて終わりなのに、奏はそれを言うのをやめられなかった。
奏は朱肉にトントンと判を弾ませる。契約書に判子を押しつけ、「送っておいてくれ」と高辻に雑な手つきで渡す。
「かしこまりました。それでは、後ほど資料をお渡ししますので、再来週金曜日のセミナーで話す内容を考えておいてください」
契約書の判子を確認すると、高辻は表情一つ変えずに社長室から出て行った。
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