オメガ社長は秘書に抱かれたい

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 兄弟たちも働ける年齢になり、ここ最近は兄弟五人で借金を少しずつ返していたらしい。里沙は『それが、こないだ全部返し終えたんです』と明るい声で言った。 『本当は兄から電話がきた時に伝えようと思っていたんですけどね。私もバタバタしてたから、なかなかこっちから連絡できなくて』  奏は「お仕事か何かで?」と尋ねる。すると里沙は、受話口で照れくさそうに笑った。 『実は私が妊娠しまして……』  高辻の妹とはいえ、まだ一度も会ったことのない女性だ。だが、おめでたいものはおめでたい。突然の報告に対し、奏も咄嗟に「それはまた、おめでとうございます」と返した。 『本当はその報告もしたかったんですけど、兄も忙しいみたいだから』  寂しそうに笑う里沙の声が切ない。高辻はもう辞めました、とますます言いづらかった。伝えておきますと豪語したものの、高辻がどこにいるのか分からないのだ。もう二度と会うつもりはないと、奏も諦めていた。  だけどどうしてだろう。今すぐ高辻に会いたかった。会社に戻ってこいなんて言わない。ただ会って、里沙から聞いた話を伝えるだけでいい。一回でいいから、高辻に会いたい。  見上げる天井が、徐々に霞んでいく。鼻をすすりかけた、その時だった。 『でも一番下の弟は最近会ったみたいなんですけどね』  独り言のように言った里沙の言葉に、奏の耳は反応した。 「――――え?」 『うちの母、数年前から体調を崩して入退院を繰り返しているんです。兄は母が入院している病院には、定期的に通っているらしくて』  思わずどこの病院に入院しているのかと訊く。あまりにも無遠慮な訊き方をしてしまったかと思ったが、里沙はあっさりと病院の名前と最寄り駅、そして母の入院する病棟にはどのバス停留所が近いかも教えてくれた。  それらを手帳にメモしたあと、奏は期待で心臓が急くのを感じた。ちょっと怖い。だが、もしかしたらここに行けば、高辻に会えるかもしれないのだ。  浮つく頭を横に振り、落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせる。奏は改めて疑問に思ったことを口にした。 「里沙さんは……私が嘘をついてるとは思わないんですか」  里沙は素っとん狂な声で『え?』と言った。 「もしかしたらお兄さんは、すでに会社を辞めているかもしれません。私と同級生だということも、あなたは知らなかったわけじゃないですか。それが嘘だったとしたら――私が本当のことを言ってなかったとしたら、どうするんですか」  すると里沙はクスッと笑った。 『兄はめったに笑わない人です。でも一度だけ、家族の前で笑ったんですよ。ちょうど夜ご飯を食べてる時だったかな。テレビで芦原社長のドキュメンタリーがやってたんです』  それは様々な分野で活躍する仕事人の一日を、ドキュメンタリー風に編集して放送する番組だ。会議の風景や社員に厳しい言葉を投げている時の映像ばかり使われ、放送直後はSNSなどでしばらく『鬼社長』と揶揄された。  里沙は続けて、『それを見た時、兄は何て言ったと思います?』と得意げに訊いてくる。  ――普段はもっと笑ってる。  そう言ったらしい。それは兄弟にしか分からない程度の笑顔だったと、里沙は言う。 『どうしてでしょうね。芦原社長と話してたら、あの日のことを思い出しました』 「……っ」 『だから、私はあなたを信じます』  里沙の声が、高辻のそれと重なって聞こえたような気がした。
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