オメガ社長は秘書に抱かれたい

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***  バス停留所の待合ベンチに座りながら、奏は里沙と話したことを思い返していた。駐車場に車を停めた時よりも空は暗くなっている。  奏が里沙から『母が入院している病棟から一番近いバス停』として教えてもらったバス停のベンチに腰を下ろしてから、早二時間。  面会にやって来たと思われる人がバスから降り、そして帰るために停留所に沿って並んでは、やって来た循環バスに乗り込む様を何組も見送った。不審な目を向けられることもあったが、奏の存在に気づいた何人かは「いつもネットで見てます」や「お仕事頑張ってください」などと声をかけてくれた。  たった一度の来訪で、すぐに高辻と会えるなんて思っていない。高辻が定期的に訪れる場所らしいが、定期的といっても一週間に一度なのか一ヶ月に一度なのか、分からないのだ。無謀なことをしている自覚はあった。  六時前には完全に日が落ちた。バスの時刻表を照らす外灯の明かりだけが、奏の座るベンチの周りを浮かび上がらせていた。  もうすぐ冬になる。日が陰ると、スーツに纏われた肌が縮こまる。頬を撫でる風も冷たい。奏はトレンチコートのポケットに両手を入れ、感覚の鈍くなった指を温めた。  腕にはめた時計が、七時を過ぎた頃だった。何台も見送ったデザインの循環バスが、停留所に停まった。  ぱっと見たところ、車内にはあまり人が乗っていない。何度目かになる落胆を飲み込み、奏は自分の足先に目を落とす。その時だった。 「――社長?」  聞きなれた声を耳が拾った。顔を上げる。バスから降りてきたのは、恋しい男、ずっと会いたかった男――高辻だった。  驚いたような表情の高辻はジーパンを履き、黒のレザージャケットを羽織っている。目にかかるまで下ろした癖のある前髪に、うっすらと窺える顎の髭――それらが軽井沢で見たラフな姿に比べ、よりワイルドな雰囲気を醸し出している。  目の前に立つ男に、条件反射のように胸がドキッと弾んだ。 「どうしてここに……」  高辻の疑問の声に対し、奏は思わず「遅かったな」と言う。勝手に来ておいて何を言ってるんだと、自分でも思う。だけど、素直になるには、高辻がまだ遠い気がしてならない。 「それより、なぜあなたがここにいるんです?」  (いぶか)しげに高辻が奏を見据える。勘の鋭い男だ。奏が答えずにいると、「里沙ですか」と妹の名前を口にした。 「……あのお喋りが」高辻が呆れるようにため息をつく。 「申し訳ありませんが、着替えを持っていきたいので一旦母の病室に行かせてください」  高辻は右手の紙袋を見せるように上げた。奏は「あ、ああ」と頷く。自分が迷惑なことをしているということは知っていた。自分だって、仕事関係者が身内の入院する病院に突如押しかけてきたら迷惑だと思うだろう。  今すぐ帰ってくれ、と言われないだけましだと思う。だが心のどこかで、奏は不安だった。このまま離れたら、高辻は戻ってこないんじゃないか――。そう思うと、高辻の背中についていきたい衝動に駆られる。  ふと見上げると、高辻は何やらゴソゴソとジャケットを脱いでいた。うん? と首を傾げつつその様子を眺めているうちに、高辻は脱いだジャケットを奏の前に差し出した。 「えっ――」 「本当は一緒に来てもらいたいのですが、母は肺を悪くしています。身内以外は病室に入れないんですよ。この時間は病院のロビーも閉まっているので、これを」  奏は恐る恐る高辻のジャケットを受け取る。手に乗せたそれは高辻の体温で温かかった。 「羽織るなり膝にかけるなりして、そこで待っていてください」  高辻はそう言うと、奏に背を向けた。病棟に向かって小さくなっていく背中を見つめる。ジャケットを鼻に押し当てると、懐かしい匂いが鼻いっぱいに広がる。身も心も一気に温かくなった。
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