三日月

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三日月

 今日の三日月には、鼻が付いている。穏やかな目で、やわらかく微笑む口元をして、悠々と空を楽しんでいるようだった。  目がしょぼしょぼとして、さっきからコンタクトレンズもズレている。師走の12月25日。  年末商戦、開始前夜。  乾燥した北風が襟元に入り込み、寒さにぶるりと体が震える。  さっきまで冷蔵ケースに並べていたかまぼこ、伊達巻、なると、栗きんとん…全部出したよな。コードの登録はした、レジも通る。プライスカードは全て確認したから。  こちらは大丈夫なはず。  レンコン、ニンジン、大根、ゴボウ、ホウレン草…明日からの販売分は品作りできていたし、市場への注文は全部出してある。  煮豚用の肩ロースは明日の朝にパックするって言ってたな。精肉のピークは29日からなんで、明日以降は解凍に注意、て言われても主任がだいたい仕切っちゃうよな、あそこは。    酢だこの在庫が心配って言ってたけど、あれは明日から展開広げて…もう来年は全部で100にしたらいいんだよな。新巻き鮭もいくつ売れるんだか…。  卵!大丈夫だ。198円のさえ残れば大丈夫。  そばと餅はすでに陳列してるし…冷蔵の生そばは全部で2000、これも在庫は確認した…。  酒は金粉入りだけ売り切ればあとはなんとかなる、とおまじないのように店長と主任が話してたし。  惣菜は「味丸美味」さんのチーフにお任せ。と丸投げしていた。別会社の扱いだから、こちらは関与しずらいってことで、空気を読んでればいいんだよな?  毎年やっててわかることと、初めてでわからないことが混在し、何かを忘れている気がする。  「迎春」の看板もすでに付けたし、おせち料理の垂れ幕も下げた。紅白の幕も巻くとこは全部に巻いた…。  クリスマスの看板、POPも下げ忘れはなかった。最後に店長と回って確認したし。  カゴも増やした…カートは3列にしたし…  また空を見た。今度は三日月の下が二股に割れ、バナナのようになっていた。 「バナナ…」  バナナ?  斜め後ろから、聞き慣れた声が返ってくる。  バナナ、食べたいの? 「バナナみたいに見えない?あの月。」  見えないよ。きれいな三日月。 なに、驚いてるのに、びっくりした!とか言わないの?目、見開いてたよ。 「そーいうの、言わないようにしてるの。」  あれか、うわ、なに?、ぎゃ!は言わないって話がこれ。 「そうす。俺のポリシーすから。」  そうすか。 「だから、目見開いた時に、ずれずれだったコンタクトが落ちた。なんてことにも騒がないんす。」  騒げよ。  止まって探そう、いつから。 「大丈夫、2週間の使い捨てだから、夜に落ちたコンタクトレンズが見つかるとは思えない。探すなら帰って寝る。まだ1週間だったけど…」  待て待て、こっちに顔、向けて。  隣の男は、俺の左頬に指を伸ばすとつい、と空気をつまんだようだった。  コンタクト、ついてた。  良かったねぇ。  そう言う唇に、俺は軽く自分のを重ねる。  頭半分、俺より下の顔には、無理なくそれが届くから。  条件反射みたいに、やめろって。  笑いながら、コンタクトどうしたらいい?と指でつまんだまま歩いている。 「申し訳ないんですけど、そうなっちゃうと、目に入れられないんで。」  確かに。  俺はカバンをガサガサ探して、ポケットティッシュを掘り当てる。 「ここにもらえますか?」  うん…帰ったらあの液体に漬けるの?  コンタクトをティッシュにのせながら、裸眼の余裕で聞いてくる。 「コンタクトって水分ないとすぐに乾燥して、縮んでかたくなっちゃうから、もう捨てます。」  ティッシュを丸めると、ポケットに入れた。  なにそれ、クラゲみたい。 「確かに。」  目、見えるの? 「うん、左はぼやけてるけど、右だけで見える。」  また月を見てみる。鼻やバナナならまだ物語を感じられたが、ついに月はぼやけたり、はっきりしたりの二重になった。  さっきは月がバナナに見えたの? 「そう、目がしょぼついて、コンタクトがずれてたから。」   きてるねー。目に。 「目にくるのよ、疲れが。35過ぎたらテキメンに。」  おじさんになってくんだ。  チーフ、明日は早番? 「うん、早番という名の通し。」  31日まで。 「聞いていい?なんか忘れてる気がするけど、忘れてないかもしれないし、あるかもしれない。」  マンションの入口に着く。階段の段差がうまく見えなくて、1段昇ったら、次の段を確認して…  おじいちゃん?!  先に昇っていったのに、笑いながら引き返してきて、俺の手を引いてくれる。  お姫様、こちらでございます。   「さっきからおじさんになったり、姫になったり、変身が忙しいな。」  あのさぁ、さっきの忘れてるって話。もしかして、これじゃない?  階段を昇りきってエレベーターに乗ると、ずっと下げていたビニールをひょいと上げて見せる。 「酢だこ?」  ばか、酢だこはいいよ。けの付く食べ物でーす。大ヒント! 「け…?け…?わからない。けの付く正月商材って何?本当にわからない。それか、忘れてんの!」  あんたさ、正月商材からは離れなさいよ。 「え!だって、クリスマスはもう終わっただろ?」  チーフ…  クリスマスは、店では終わったけど、まだ僕らでは終わってないでしょ。 「あー、あ、ケーキ!ケーキ買ってきてくれたの?」  うん。チョコの。 「ありがとう!チョコ大好き、食う。早く部屋入ろ。」  エレベーターまで、ずっと正月の売り場のこと考えてたろ… 「うん、でもすっきりした。明日から大丈夫だ。なんとかなる。」  紅白のかまぼこが…1月3日の初売りで、冷ケースの端っこで20%引きになる恐怖… 「やめて、やめてください!かまぼこの話だけは…」  笑いながら、男の胸に体を預けてお願いをする。 「ケーキ食ったら、すぐ寝よ。睡眠の、寝るね。明日から…ずっと6時出の6連勤だから。」  俺も、そう思ってましたよ…    耳元で、健人がそっとささやいた。   三日月 おわり
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