1話 決意 

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1話 決意 

その後、俺は彼女を自宅へ連れ帰っていた。 着替えはないが、お風呂に入れ全身の汚れを落とした後、彼女にご飯を振る舞った。 彼女は特に抵抗はしなかったが、その目には確かに警戒の意が見えた。 どうやら感情を失っているわけではないらしい。 よかったと、俺は内心で息をつく。 だが、ご飯を振る舞うときは彼女の目から警戒の意は感じられず、脇目も振らずにご飯に夢中になっていた。 ……勿論、拉致をしている訳ではない。 (よこしま)な気持ちもなく、俺はただ善意で彼女を救いたいと、そう思った。 だが、これが世に伝わるかと言われたら微妙なラインだろう。 警察でも連れて来られたら面倒事になるのは目に見えている。 でも、それを考えても俺は彼女を救いたかった。 見捨てるなど、彼女を視界に入れたときから考えることはできなかった。 そして俺はここに来るまでの途中、彼女の手をずっと握っていた。 この手を離してしまったら、彼女はまた傷ついてしまう。 なぜかは分からないが、俺の心の中にはそう確信づける何かがあった。 それに、彼女は多分親に愛情を注がれてこないまま育ってきたのだろう。 愛情がないと、彼女の心が育つことはない。 人の心なんて、愛情によってつくられるものだ。 だから、俺が彼女の親の変わりに、彼女に愛情を注いであげるのだ。 彼女の心をつくるために。 彼女がもう苦しまないように。 お前なんかがと思われるかもしれない。 でも、彼女がハチ公像前に座って怯えていたとき、彼女に振り向く人なんて一人もいなかった。 俺が救ってやらなければ、誰が彼女を救えるというのだ。 結局、社会なんてそういうものなのだ。 人一人救えない社会に……俺は苛立ちを覚えていた。 「……どうした?」 俺は彼女の挙動にふと疑念を零す。 見ると、彼女はどこかそわそわしているように見えた。 座りもしないで、両腕で肩を抱き小さく俯いている。 ……彼女はまた一言も喋らない。 あぁ、そうか。 そういえば、まだ彼女にどこに連れてきたのかを教えてなかったな。 彼女はきっと、見知らぬ場所にいきなり来て混乱しているのだろう。 俺は彼女の前に歩み寄り、肩を抱いている手をそっと自分の手で包み込む。 瞬間、彼女の体が僅かに震えた。 「ここは俺の家だ。言ったろ?寒いからとりあえずに来いって。」 俺は優しい声音で彼女に話しかける。 だが、彼女の体は依然として硬直していた。 俺はその体をほぐすように、彼女の体を俺の腕で優しく包み込む。 もう強く抱き締めることはない。 「ここにはもう、君を傷つけるものはなにもない。怖がる必要なんて、何もないんだ。」 俺は再び彼女に諭すように話しかける。 彼女の緊張をほぐすように。 彼女の警戒を解くように。 彼女の心にしつこくこびりついた不安を溶かすように。 すると彼女はゆっくりと顔を上げ、俺の顔に哀しげな視線を向ける。 その姿はまるで、助けを求める小動物のようだった。 ……このとき初めて、彼女はガラクタから脱することができたのだ。 俺は彼女に優しく微笑みかけながら口を開く。 「君、名前は?」 そう問うと、彼女の口が震えながらかすかに開く。 「……惣田(そうだ)……梨奈(りな)。」 その声は、この世のの中で何よりも脆く、何かが少しでも触れてしまうだけですぐにでも壊れてしまいそうな、そんな声だった。 俺は今できる最大限の笑みを顔に浮かべる。 「そうか……梨奈、か……。可愛らしい、いい名前だな。」 俺がそう言葉を零すと、彼女は苦悶の表情をその顔に浮かべる。 「……どうした?」 俺は彼女の表情が気になり、思わず声をかけてしまう。 「……嫌いなの。私はこの名前が。」 その声が耳を震わせた瞬間、俺の頭の中に一つの見解が浮かんでくる。 「……親につけられた名前だからか?」 俺がそう聞くと、梨奈は噛みしめるように頷いた。 「私、お父さんとお母さんにいじめられてるの……痛いこともされて、ご飯だってちゃんと食べられなかった。そして最後にお父さんとお母さんは私を捨てた。私をいらない子だって言って、場所も分からない公園に捨てた……!」 興奮してきたのか、梨奈の話す速度が段々と速くなる。 しかし、その速度は幼い子供には速すぎ、上手く呂律(ろれつ)が回っていなかった。 「私、ずっと苦しかった!辛かったの!」 梨奈のヒステリックな声が部屋中に響きわたる。 その瞬間、俺は梨奈のことを抱きしめていた。 「お兄……ちゃん?」 俺は梨奈の声を聞き、気づけば頬に伝う何かがあった。 俺は声を震わせながら言葉を紡ぐ。 「辛い過去を話してくれて、ありがとう。お兄ちゃんって呼んでくれてありがとう。でも、もう大丈夫。兄ちゃんは、梨奈のことを絶対に守るから。もう梨奈のことを、傷つけたりなんかさせない。傷つけたり……させるもんか。」 俺は梨奈を抱く力を強める。 「お兄ちゃん……苦しいよ……」 その声が俺の耳を震わせた瞬間俺は我に返り、急いで梨奈から離れる。 「ご、ごめん!大丈夫か?」 俺は梨奈の顔に視線を向けると、梨奈の目からも何かが頬を伝っていた。 それは、頬についた汚れをわずかながら洗い流していた。 「……梨奈?」 俺は涙を流している梨奈を見つめながらそうつぶやく。 「えっ、お兄ちゃん、なんで泣いてるの?」 「えっ……」 俺は梨奈にそう言われ、自分の頬に手を当てる。 僅かな水分を、俺の手は感じ取っていた。 俺は苦笑いを口元に浮かべながら言った。 「……ごめん。兄ちゃんも泣いてたみたいだ。」 すると梨奈も、俺と同じように口元にかすかな笑みを浮かべる。 「なんでお兄ちゃんが泣いてるのさ……変なの。」 ……そうして俺らは笑い合う。 決して深くもなく、まだまだ脆いが、確かに俺と梨奈の間には絆が芽生えた気がした。 梨奈は、ここで初めて愛情というものを知ったのだろう。 梨奈の笑うその姿は、まるで憑きものが取れたかのように純粋で、そして綺麗だった。 「……そういえば、お兄ちゃんの名前はなんて言うの?」 しばらく笑い合い、落ち着いたところで梨奈がそう問いかけてくる。 「兄ちゃんの名前か?」 「ほら、まだ教えてくれてなかったでしょ?」 「……確かに、そうだったな。」 俺は一息つくと、自分の名前を梨奈に明かす。 「俺の名前は、諏訪(すわ)宏明(ひろあき)だ。」 梨奈は俺の名前を聞くと、 「じゃあ、ヒロお兄ちゃんだね!」 と、そう言って屈託のない笑顔を俺に見せてくれる。 その笑顔を見て俺の口元はほころんでしまった。 そうして、俺は梨奈の笑顔を見ながら決意する。 梨奈を絶対に守る。 そして、梨奈を愛情のある、優しい大人に育て上げると……
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