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2話 強い子
……あれから俺たちは、一緒に生きることにした。
ただ、前の家は1DKで、二人で住むのには少し窮屈だったため、俺たちは二人暮らしでも圧迫感のない2LDKに引っ越すことにした。
引っ越すと同時にベッドやソファなどの家具も増やし、梨奈が生活するのに必要な衣類や娯楽なども、先月出たボーナスを全てはたいて買った。
今は少々カツカツだが、多少節約しながらやりくりしていけばなんとかなるだろう。
そうして梨奈と出逢ってから数ヶ月後の休日の午前中。
俺は梨奈をリビングに呼び出していた。
今じゃ顔にあった汚れも、額の傷も、もうそこにあったのかすら分からないほど綺麗に完治していた。
心に深くこびりついた不安も、俺と生きていく中で溶けつつある。
もういい頃合いだろうと感じた俺は、梨奈に『ある話』をしようと思ってリビングに呼び出したのだった。
ローテーブルを隔てて、お互いはカーペットの敷かれてある床に座り、正面にいる梨奈に俺はこう話題を切り出してみる。
「最近、梨奈は部屋で何をしているんだ?」
梨奈は一瞬疑問の表情を浮かべたあと、すぐにいつもの穏やかな表情に戻る。
「最近はねー、部屋でずっと本を読んでるよ。」
「本か……何の本を読んでいるんだ?絵本か?それとも漫画とか小説とかか?」
「前まで漫画をずっと読んでたんだけど、最近になって小説の良さに気づき始めたんだよ!」
梨奈の瞳は言葉をつくごとに輝きを増していき、言い終わると梨奈は興奮を抑えきれずにテーブルに手をつき身を乗り出してくる。
俺はその勢いに気圧され少々のけぞってしまう。
しかし、梨奈の瞳は前までにはなかった幼い子供特有の輝きを纏って放ち、俺はそれを浴びて口元がほころんでしまった。
……本当に変わったよなぁ。
俺は思わずそう思ってしまう。
出会った頃は口数もほとんどなく心を閉ざしていた梨奈は、俺と一緒に生きることによって徐々に俺に心を開いていってくれた。
その結果、こうやって口数が増えるようになったし、何より目が変わった。
前までの梨奈の目は、意志がなく、そして光がなかった。
まるで生きることを諦めている、もしくは、もう死んでいることを表しているかのようだった。
けれど、最近はこんなに輝かしく、そして綺麗に光っている。
こんなに嬉しいことはない。
「……何笑ってんの?」
俺が物思いにふけていると、梨奈が目を細めながらそう口を開く。
「……いや、なんでもないよ。」
「本当に?梨奈のことバカにしたりしてない?」
梨奈は俺の言葉に被せるように、さらに身を乗り出して言及してくる。
「本当。本当にバカにしてないよ。」
俺は梨奈をなだめるように落ち着いた声音で言った。
梨奈は俺の顔に依然として鋭く視線を向けるが、
「……ならいいけど。」
と言って、少し不満そうな雰囲気を醸し出しながらも床に座り直す。
「……話が脱線しちゃったな。」
俺はそう言うと、ほころんでいた口元を締める。
が、目は依然として温かい目になるよう心がけて、梨奈に視線を向けた。
「梨奈は最近、部屋でずっと本を呼んでいるんだったよな?」
俺がそう問うと梨奈は、
「うん。そうだよ。」
と相槌を打つ。
ほとぼりが冷めたのか、いつしか梨奈の目つきはいつも通りの穏やかな目つきに戻っていた。
「つまんなくはないのか?」
「つまんなく?うーん、つまんなくかぁ……」
梨奈は腕を組み、口を真一文字にしながら考え込み始めた。
いや、別にそこまで考えなくても……
心中でそうつぶやくが、梨奈の思考の邪魔をすることははばかられたため、俺は返答をじっと待つことにした。
そうして梨奈は10秒程考え込んでようやく口を開いた。
「まぁ、最近まで読んでた本ももう読み終わっちゃったし、暇っちゃ暇かなぁ。」
「そうか。だったらさぁ、」
始めにそう言葉を置いて、俺は『ある話』を梨奈にする。
「梨奈、学校に行ってみないか?」
俺がそう言うと、梨奈は先程よりもはっきりと疑問の表情を顔に浮かべた。
「……ガッコウ?」
「そう、学校。」
「……ガッコウって、お友達と一緒にお勉強とかをする、あの学校?」
梨奈は頭を横に傾けて俺に問いかける。
「そう。あの学校。」
「梨奈それ知ってる!本で見たことある!」
「そうか、なら話は早いな。」
「あっ、うん。」
梨奈は半端に相槌を打つと、ソファに座って俺から視線をそらす。
「……どうかしたのか?」
俺は梨奈の反応が気にかかり、声をかける。
「いや、上手くやっていけるかなって、ちょっとだけ不安になっちゃって。」
梨奈は苦笑しながらこめかみを掻く。
「……そうか。」
この話を持ちかけるのは少し早かっただろうか。
でも、この時期からもう学校に通い始めなければ、クラスで友達の輪の中に入っていくのは難しいだろう。
梨奈の心の状況を考えると尚更だ。
俺は壁にかけてあるカレンダーに視線を移す。
今は7月半ば。
運動会シーズンも過ぎ、行事も特になかったような気がするので、このタイミングで入学するのが1番いいだろう。
学芸会シーズンに入ってしまったら、梨奈はみんなについていけなくなってしまうかもしれない。
梨奈の心の傷は治ってきているし、無理するのはよくないが、このタイミングを失ってしまうと今度はいつ入学できるのかが分からなくなってしまう。
俺は、カレンダーから梨奈に再び視線を移すと、うつむいている梨奈の頭にそっと手を置く。
「ん?」
梨奈は上を向くと、不思議そうに俺のことを見る。
俺は梨奈と目が合うと、また口元をほころばせる。
「大丈夫。心配なんかいらないさ。」
「……なんで、そんなことが言えるの?」
突然現れたそんな問いに、俺は思わず言葉を詰まらせてしまう。
「それは……」
「学校に行って、もしかしたらいじめられちゃうかもしれないんだよ?」
俺の言葉を遮るように梨奈は言葉を連ねる。
「……いじめは、本か何かで知ったのか?」
「……うん。」
「そうか。」
どう言葉をかけていいのかわからず、俺はそんな相槌しか打つことができなかった。
どうする。
どうしたらいい。
梨奈をなんとか学校へ行かせてやりたい。
でも、無理矢理行かせてしまったらそれは逆に梨奈に負担をかけてしまうだろう。
だったら、どう声をかけたら梨奈は学校に心置きなく行ってくれるのだろうか。
落ち着かない沈黙が俺たちを飲み込む。
俺も、そして梨奈も、いまだ言葉を発せずにいた。
そうして何分経っただろうか。
まるで時が止まってしまったかのような錯覚に陥りそうになる中、俺は巡っていた思考を整理して口を開く。
「確かに、最初は怖いかもしれない。」
それまでうつむいていた梨奈も、俺が言葉をついたと同時に顔を上げ、俺に視線を向けた。
「でも、周りの人たちは絶対梨奈のことを優しく迎え入れてくれるはずだよ。」
「だから、なんでそんなことが言えるのって……」
「梨奈。」
今度は俺が梨奈の言葉を遮る。
梨奈は俺の声に一瞬体を震わせると、外しかけていた視線をまた俺の方に向けるが、その視線はやけに弱々しく、そして今にも崩れてしまいそうに脆かった。
「梨奈は、まだ酷くて、汚い大人たちしか見たことがないかもしれない。でも、この世には梨奈が出会った大人たちよりも心のきれいな人はたくさんいる。ましてや子供なんて、俺ら大人よりもずっときれいな心の持ち主ばかりだ。確かに俺が言うこの言葉に確証はないかもしれないけど、少なくとも梨奈の親みたいにクズな奴らなんかそうそういないさ。」
俺はそこまで言うと、一呼吸開けて、さっき梨奈に向けた言葉を再度口にする。
「だから、周りの人たちみんな、絶対に梨奈のことを優しく、そして温かく迎え入れてくれるよ。」
俺は抱き締めるような形で、梨奈の背中に腕を回す。
「現に、俺がこうやって梨奈のことを温かく迎え入れているみたいにな。」
……今梨奈がどんな顔をしているかはわからない。
ただ、胸の中から聞こえる小さな嗚咽に耳を傾けると、梨奈の今の顔は容易に想像出来た。
ただ、その嗚咽は決して押し殺しているわけではなかった。
梨奈の心の内にこびりついた不安を、また少しずつ洗い流していく。
そんな、心からの嗚咽だった。
梨奈は、人と接することに恐怖を覚えている。
そりゃそうだ。
なんせ、虐待を受けていたのだから。
人が怖くなって当たり前なのだ。
でも、今のままじゃ梨奈は優しい大人になることはできない。
このまま誰とも接することなく梨奈が大人になってしまうと、俺がもしいなくなったとき梨奈が辛い思いをしてしまう。
だから、そうならないためにも、俺は梨奈と周りの人たちを繋ぐ場所として、学校に行かせなければならないのだ。
「……最後に一つ聞いていい?」
嗚咽も収まり、落ち着いてきた梨奈は俺の胸の中で言葉をこぼす。
「どうした?」
「ヒロお兄ちゃんはどうして私を学校に行かせようとするの?」
そんな問いに俺は、
「梨奈が、優しくてきれいな大人になるためだよ。」
と返した。
「……そっか。」
梨奈はそうつぶやくとそれ以上言及することはなかった。
きっと梨奈も薄々気づいているのだろう。
このまま現状維持をしていても意味なんてないと。
だから梨奈は今必死に自分自身と葛藤しているのだ。
この歳でこの決断はまだ早すぎるが、それでも今ここでこの決断をさせなければならない。
俺にできることは、梨奈の葛藤を静かに見守ることだけだ。
いい結果になることを信じて。
そうして3分くらい梨奈の葛藤を見守っていると、梨奈はゆっくりと口を開いた。
「……わかった。」
そう言って梨奈は俺から離れる。
「私行くよ。学校。」
その目は決してガラクタではなかった。
まっすぐな瞳で、そこには輝きがある。
自分自身に勝利した、そんな輝きが。
俺はそんな梨奈に優しく微笑みかける。
「そうか。」
「うん。」
梨奈ははっきりと首肯する。
その仕草には、決意の意思がしっかりと見て取れた。
「……強い子だ。」
俺は梨奈のそばへ行ってその頭に手をそっとのせる。
梨奈は俺を見上げると、輝かしい笑顔を見せてくれた。
「さて、それじゃあ今から買い物に行くぞ。学校に行くためにはいろいろと物を揃えなくちゃいけないからな。すぐ出発するから、梨奈も部屋に戻って身支度してこい。」
「うん!」
梨奈は本当に強い子だ。
きちんと自分と向かい合ってやるべきことから目を背けなかった。
小学3年ではほぼあり得ない芸当を、梨奈は見事やってのけたのだ。
ただ、勿論まだまだ弱いところはたくさんある。
次はそこをどれだけ克服できるかだな。
梨奈が自分の部屋に入っていく姿を見て、俺はそんなことを思うのだった……
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