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プロローグ
「大丈夫。僕が基本問題のプリントをつくるからね。とりあえず基本問題で点数を稼ごう。だから頑張ろうよ」
日下健が優しくスマホの相手に呼びかける。眼鏡をかけた真面目そうな表情にあたたかい笑みを浮かべていた。
2LDKのマンションの部屋。
健はスカイブルーのパジャマ姿で、奥の部屋のデスクに向っていた。
デスクには高校の英語、数学、現代文の教科書や参考書が山と積まれている。
壁の本棚にも高校の教科書や参考書、問題集がギッシリ並んでいる。
机の上には名刺が貼られていた。
<国際カンパニー総務課資料室 日下健>
国際カンパニーといえば、日本のみならず世界に名の響く大企業である。あらゆる分野に進出し、
「人は一生を国際カンパニーの中で過ごすことが出来る」
というキャッチフレーズで知られている。
健が私立白鳥高校卒業後、この会社で働き始めて二年目。
その傍ら、自宅を利用して、勉強が全く苦手な中高生のために無料の学習スクールを開いて二年目。
今は高校生のために定期テスト用のプリントを作成中。
壁には会社で着るスーツが三着かかっている。
「困っちゃった」
健はスーツを見てため息をついた。
「プレゼントを処分するワケにはいかないし。何となく今日、本田先生が来るような予感が……」
全くこういう予感がハズレたためしはない。
その言葉が終わらないうちに、
「大好きな日下くん」
優しい声が聞こえ、グレーのスーツの女性が入ってきた。セミロングに今にも泣きだしそうな優しそうな表情。短いスカートからは、ダークブラウンのストッキングを履いた美脚がのぞき、太腿をきつく締めつける唐草模様のストッキング止めが官能的だった。
彼女はこの部屋のスペアキーを持っていた。
住民ではないはずだが、有無を言わせず健から取り上げたのだ。
「本田先生」
健があわてて椅子から立ち上がる。
「婚約者だから立ち上がる必要なんてありません」
進学校として知られる白鳥高校一年の学年主任、本田つかさが拗ねたように健の顔を見つめる。とても学年主任とは思えない甘ったるい表情。
学校では決して見せたこともなかった。
健の高校時代、三年間通じての担任だった。
そしてつかさ自身は、健の婚約者を名乗っている。
「でもいいか」
健より十二歳年上のつかさは、まるで母親のように優しく健を抱き上げ頬ずりした。体力のまるでないつかさだったが、健に対してだけは強くなれた。
「日下くんが立っていた方が、こういうこと出来るから」
つかさは健を抱き上げたまま、何度も頬ずりをして、健の小さな口を大事そうに吸った。
健は困ったような表情で、つかさのされるがままになっている。
つかさはしばらく幸せいっぱいの表情で、健を胸の中に抱きしめていたが、急に顔色を変えた。
優しい口調だが悲しそうな表情で健に尋ねてきた。
「ごめんなさい、日下くん。このパジャマ、どうしたんですか?」
どうしたのかといわれれば、健の「婚約者」を名乗るもうひとりの女性からのプレゼントだった。
だが健自身はそんな約束はした覚えはない。
パジャマを着て自撮りして送ってくれと言われたので、仕方なく今日このパジャマを着ていたのだ。
つかさは二日か三日に一度は訪ねてくる。今日、虫の知らせがあったので、誤解を招きそうなものは全部片づけておくつもりだったのに、こんなに早く来るなんて……。
「そ、それは……」
健はどう答えたらよいか分からず下を向いて口ごもるだけ。
「日下くん」
つかさは優しい表情は絶対に崩さない。ちょっとだけ眉をひそめる。
「このパジャマ脱いで、私の買ったパジャマに着替えましょう。今度、賞与が入ったら、私が新しいパジャマ買います」
「いいんです。そんな」
健があわてて叫ぶ。新たなトラブルの種でしかない。
だがつかさは全く聞く気もない。
「これは婚約者の義務です」
つかさはそう言って、抱きしめる腕に力を入れた。
そう言われると口ごたえ出来ない。
健はよく知っている。
つかさの心の中では、白鳥高校の教務主任になったら正式に結婚する約束をしたことになっている。
健はずっと辞退し続けていたが、結婚したら否応なく、つかさの用意したお金で健を大学に入学させると言っている。
「教務主任になったら給料も高くなるから、日下くんが心配する必要なんてありません。夫を助けるのも妻の役目。それに日下くんは私のことをずっと助けてくれたんです」
つかさはそう宣言していた。
だが、この宣言は他の者には全く相手にされていなかった。
突然、健のスマホが着信を知らせる。
健はスマホの画面を見て真っ青になる。
何でこんなときに!
「誰です?」
つかさの顔色が変わる。
「不良の月影さん?」
この場合、健は何と答えたらよいのでしょうか?
「しかもLINE!日下くんはヤンキー女とLINEしているんですか?」
健は言葉もなくうなだれている。健からすればつかさは婚約者でも何でもないから、誰とLINEしても自由なはず。
だがそんな反論は、心の優しい健には出来なかった。
「取りあえず出てください」
つかさが健の頭を優しくなでる。
「こんにちは、先輩」
つかさの前で、白鳥高校の一年先輩だった月影サキに呼びかける。
「健!サキだよ~」
はしゃいだサキの声。
つかさがすぐにスピーカーの設定にする。健の意向なんか関係ない。
「ねえ。健のこと、婚約者と妄想している見苦しいババアに替わってくれる」
サキののんびりした口調。
「ババア?」
つかさの絶叫が部屋中に響く。つかさがスマホを取り上げる。
「サキさん、日下くんに電話なんかしないでください」
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