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しかしまぁ、そんなに人生上手くいくはずもなく。
私は結局、大学卒業までに音楽で有名になることはできなくて、大人しく内定を貰った会社に事務職として就職した。
それが十年前の話。
そして社会人として地味なOLを続けた十年後、まさか病気がキッカケで、こんな風に音楽への未練が溢れ出すなんて思ってもみなかった。
家族に会って病気の話をしなければならない。
職場にも説明して、傷病休暇の申請もしなくちゃ。
がん保険の確認もしないと。
入院のために、買い揃えないといけないものだってある。
やる事はパッと思い付くだけでも沢山あるのに、私は何よりもまず歌いたいと思った。
なりふり構わず、大きな声で歌いたい。
そしてそれを誰かに、届けたいと思った。
本当にそれは衝動であり、私の中にある本能だった。
しばらく下を向いて涙を流したら、今度はタッチパネル式のリモコンに手を伸ばす。
自分が好きな曲、最近流行ってる曲、何でも良いから歌えそうなものを片っ端から登録していく。それから自分の顔が映らないように、壁の方にカメラを向けて携帯の録音ボタンを押す。
少しだけ緊張して呼吸を整えると、私の黒い不安を打ち消すかのように、スピーカーからは軽快なメロディーが爆音で流れた。そのメロディーに合わせて、思いっきり声をあげて歌う。
気持ちがよかった、とても。
私の心の中にあるモヤモヤを全て音楽にぶつけた。
こんなに全力で歌ったのは久々だった。
自分の中にあるがん細胞も、音楽を辞めてからまるで色を失ったかのように地味になってしまった人生も、歌っている間だけは全部忘れられた。
ずっと歌っていられたらどんなに幸せだろうと、素直に思った。
でもそんな風に楽しい時間はあっという間で。
夢中で歌っている私を現実に引き戻すかのように、大きな音で壁に備え付けてある電話が鳴った。
「はい」
「お時間10分前です。延長なさいますか?」
「いえ、出ます」
「ではフロントでお待ちしております」
この会話で私の高揚していた気持ちは、一気に冷静になった。どんなに声高らかに思いっきり歌っても、私は楽しく夢を追いかけていたあの頃には戻れないのだ。
大きな溜息をついて、録画していたスマホを止めた。
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