一. 岡山篤次郎

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一. 岡山篤次郎

   一. 岡山篤次郎  奥州二本松の城下を、息せき切って駆けていく少年の姿があった。 「母上! 母上、おられませんか、吉報です!」  まだ幼く、高く響く声を弾ませながら、岡山篤次郎は自宅の敷居を飛び越えた。  慶応四年七月二十七日。  篤次郎、この時若干十三歳。  学館から駆け通しで来た足は自宅の玄関先で漸く止まり、そわそわと落ち着き無く幾度も母を呼ぶ。  やがて奥の間から顔を覗かせた母の姿を目に留めると、篤次郎は漸く喉を休める。そうして紅潮しきった顔を更に綻ばせた。未だ幼いながらに、整った目元を煌かせながら。 「母上、やっと出陣のご許可を頂きましたっ! ついに初陣です!」  その瞬間、土間に降りた母は怪訝そうに篤次郎の顔を窺った。  立ち尽くしたままの母の許へ歩み寄る。 「どうかしましたか、母上?」 「いいえ、何でもありませんよ。それで、出陣というのは本当なの?」 「はい! ご家老の丹羽一学様より出陣のご許可を賜ったのです! ですから母上、急ぎ仕度をお願いします」  胸を躍らせる篤次郎は、何よりもまず晴れ着の仕度を頼んだのだった。 「……それでは、他の皆様もご一緒なのですね?」 「私の通う木村先生の道場の者は、皆揃って出陣することになりました!」  そう伝えてすぐに、母の眉が微かに顰められたことには僅かも気付かず。 「母上。私の衣服や持ち物の全てに、名を書いてくださいね」 「名前を? それは構わないけれど、どうして?」  あどけない微笑みを満面に浮かべながらねだる篤次郎に、母は不思議そうに首を傾げた。 「私はあまり、字が上手ではありませんから。自分で名を書いて、もしも敵に見られては格好悪いでしょう? それに、母上が私の屍を探す時、きっとすぐに分かると思うのです」  笑顔ながらも、きりりと眉目を凛々しく輝かせて言う。  戦場へは、元より死ぬ気で行くもの。武士の子であれば当然、自分も他の子弟たちもその覚悟を決めているのだと、篤次郎は一層語気を強めた。 「篤次郎、おまえ……」  一時、言葉を呑んだ母だったが、やがて微笑を差し向けた。  座敷の中ほどに正座したまま、ぴんと背筋を伸ばし、篤次郎の覚悟の程を見極めたかのように。 「わかりました。おまえの言う通りにしましょうね」  頷いた母の目元に僅かな暗い陰りが差したことに、篤次郎はこの時、気付く事はなかった。 「必ずや、殿様のお役に立ってみせます! そのために、今日まで砲術を学んで来たんですから」 「そうね、くれぐれも、恥ずべき行いのないように」 「はい! ああ、そうだ。名前の脇に、ちゃんと二本松藩士って書いてくださいね、母上っ!」 「はいはい」 「あっ、それから……」 「何です?」 「これから一度、皆で銃太郎先生の道場に集合することになっているのです」  きっと明日の出陣のことで指導があるのに違いない。  そう告げると、篤次郎は軽く飛び跳ねるような足取りで、再び家を飛び出して行ったのだった。  その背を見送り、やがて篤次郎の背が見えなくなると、母は一人呆然と立ち尽くしていた。      ***  藩からも大きな期待を寄せられる未だ若い砲術家、木村銃太郎の門下に篤次郎が一番乗りで入ったのは、まだほんの半年ほど前のことだった。  先年の末まで、西洋流砲術を学ぶ為に江戸へ遊学していた銃太郎の門下生は、まだ元服前の子どもたちばかり。篤次郎と同じ年頃の藩士の子弟たちである。  銃太郎の指導は厳しく、怒れば鬼をも(ひし)ぐと言われるほどであったが、その厳めしい面立ちは笑えば一転して人好きのする笑窪を覗かせる。普段は優しく温厚な人でもあり、まだ体の小さな子どもたちに合わせて、自ら一緒になって銃の構え方を考えてくれる。  門弟たちはそんな銃太郎を「若先生」と呼んで慕い、道場はいつも賑やかな声で溢れていた。 「明朝、六つ半に集合だ。皆、良いな? 今夜は充分に休息を取っておくんだぞ」  銃太郎が言うと、弟子の少年たちは口々に小気味良い返事をする。  だが、気が昂り過ぎているのか、そのまま弟子同士で互いを鼓舞するかのようにはしゃぎ出した。 「明日は絶対に敵の大将を討ち取ってやる!」 「おれたちが薩長なんぞに負けるものか!」 「こら、おまえたち! 意気込むのは結構だが、戦を甘く見るんじゃないぞ!」  門弟たちに釘を差したのは、師・銃太郎である。  身の丈五尺七、八寸はあろうかという大柄な銃太郎に叱りつけられれば、大概は皆黙り込んでしまうものだが、この時ばかりはそうもいかなかった。 「ですが、若先生。私も若先生と一緒なら、戦で死ぬことなど怖くはありません!」  はしゃぐ門弟たちの味方をするわけではないが、篤次郎も思わずそう声を上げる。  すると、皆が我も我もと手を挙げた。 「ああもう、わかったわかった! 兎も角、今日はこれで解散とする。明日は遅れることのないようにな」  そう言った銃太郎は困り笑いで窘め、篤次郎に向き直る。 「篤次郎、この戦は死ぬための戦ではない。二本松を守るための戦だ。おまえの覚悟は素晴らしいが、まずは普段通りの腕を揮えるよう冷静にならねばだめだぞ」  篤次郎が神妙にはい、と頷くと、銃太郎は途端に破顔してその大きな手を篤次郎の頭にぽんと載せた。 「よろしい。大丈夫だ、おまえは私の門弟の中でも腕は一等。期待しているぞ」  篤次郎は、はっと顔を上げる。  思いがけず掛けられた言葉に、篤次郎は面映ゆさを抑えきれなかった。  足に下駄を突っ掛けた篤次郎の腕を、一つ年上の成田才次郎が小突く。 「なあ篤次郎、明日はいよいよ初陣だな!」 「うん、これでやっと一人前だ!」 「ははーん、そんなこと言っておまえ、寝坊したりするなよ?」 「するもんか! 才次郎こそ、今夜あたり怖気づいて眠れなくなるんじゃないのかぁ?」 「そんなことがあるもんか。明日は絶対おまえより早く来てやるからな」 「そうはいくか、一番乗りの座は渡さないぞ」  道場の冠木門をくぐると、西に傾いた日が赤々と空を染めていた。  二本松の城は戦国の世から変わらぬ山城で、道場はそのすぐ東の北条谷にある。日が落ちれば、谷間の道場付近は既に残照の中だ。  早く、明日になれば良いのに。  銃太郎の後に続いて出陣の列を行く様子を思い浮かべ、薄暮の中を帰途についた篤次郎の足取りも、踊るように跳ねていた。      ***  その夜、篤次郎の母・なおは、細く揺らめく蝋燭の灯りを頼りに、我が子の戦装束を繕っていた。  まだ幼い、まだ十三歳の我が子。  大人たちの難しい事情など、年端もゆかぬ我が子が知るはずもない。  ただ殿様の為に働き、男として恥を為さぬ様にと張り切っている。  篤次郎だけではない。きっと他の子どもたちも、そうであるに違いなかった。  もう大分以前から、子どもたちは挙って藩へ出陣許可の嘆願を行っていた。  それが漸く聞き入れられたのだと、素直に喜んでいるのだろう。  二本松の一藩士として認められた証拠だ、と。  普通、藩では十八に至らねば、藩士として出仕することは認められない。  それが、僅か十三歳の子どもさえ戦へ出されることになるとは。  袴も陣羽織も、戦装束に子ども用のものなど用意してはいなかった。  なおは仕方なく夫の余分を引っ張り出し、丈を詰めた。  この奥州の地へ大挙して押し寄せる薩摩・長州の大軍を、あえて迎え撃つ構えの奥羽諸藩。  本来、薩長を中心とする西軍は、会津藩の討伐が目的だったと聞く。  それが今はどうだろう。今や彼らは「奥羽皆敵」と宣言し、奥羽諸藩のすべてを掃討しようとしている。  これに対し、奥羽諸藩は挙って攻守同盟を結んだ。  だが、薩長の圧倒的戦力の前に、今や幾つもの同盟諸藩が敵に帰順してしまっていた。  最も憂うべきは、二本松と国境を接する三春藩の背盟であろう。  それによって二本松はより苦境に立たされることとなったのである。  白河城の攻防戦から始まった奥州の地の戦は、去る閏四月にその火蓋を切り、二本松も多くの藩兵を白河戦に送った。今、二本松の城中に残るのはごく少数の家中のみ。  筆頭家老の丹羽丹波も未だ城下に戻らず、城内の指揮を執るのは、強硬に主戦を唱える丹羽一学らであった。  戦も政も解らぬ女の身でも、この戦が如何に苦しいものであるかは容易に想像がついた。  そんな戦に、何故篤次郎のような子どもが出ていかねばならないのか。  明日を最後に、もう我が子の顔を見ることも、声を聞くこともなくなるのかもしれない。  夜は静かに更け、涼やかな音を奏でる虫の声が初秋の風に乗って、なおの耳にこだまする。  虫の声が啜り泣く声を掻き消してくれるよう、願った。  そして、我が子の晴れ着に涙の跡が付かぬよう、一針ごとに溢れるこの涙が早く引いてくれるように。 (どうか、この字が役に立つことなどありませぬように――)  なおは涙を拭って晴れ着を裏返すと、強く祈りながら篤次郎の名を書き付けたのだった。 【二.出陣】へ続く
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