23. 終幕 -前日譚-

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* 「へっくし!」とミクサは小さくクシャミをした。  夏風邪かしらと鼻をすすりながら、裸足でフローリングの床を歩く。  海ノ宮浜での交戦の翌日、ミクサはとあるアパートの一室にいた。  オレンジ色が主体の可愛らしいリビングだった。別に自分の趣味ではないし、そもそも自分の部屋でもない。  薄いラベンダー色の髪をさっと耳にかけ、ミクサはドサリとソファーに座った。  おもむろに足を組み、腕を組んで背中を預ける。そのままソファーに頭を預けて目を瞑った。  ──トールから音沙汰がない。  それがどうにも解せないし、気に食わない。  トールに頼まれたことをこなせなかったことも、何となく分かっている。  本意ではなかったが、ククリを利用して例の〈鶴〉を殺そうとした。ククリには悪いことをしたという一抹の罪悪感はある。  それでも、身内の死が回避されるなら、やるしかないじゃないのと思ったのだ。  トールは当然、引き戻しを行ったはずだ。  うまくいけば、引き戻された時間軸の出来事が正となり、海ノ宮浜での事象にも何らかの影響があるはずだった。  (へそ)を曲げたククリにお灸を据えていたから仔細は追えていないが、気づけば〈鶴〉は息を吹き返していた。  自分が失敗したのか、それともトールが引き戻した時間軸で何か予期せぬことが起きたのか、まるで状況が分からない。  どちらにせよ、トールの計画は失敗に終わったらしい。だったら状況を教えるのが筋ってものだろう──。  何がどうなっているのか分からない、そんな苛立ちが募る。  ……そういえば、〈鶴〉の青年は何度かトールの引き戻しに付き合わされていたのか。  陸からすれば、きっと奇怪な展開のオンパレードだっただろう。事情が分からないどころではない。  そう考えると、少しばかり同情の意も湧く。  今更ながら、あの〈鶴〉にも可哀想なことをしたかもしれないと思った。  そんなことをつらつらと考えていたら、いつの間にか眠っていたらしい。 「──なぁなぁ、ミクサ〜」  緊張感のない間延びした声で名前を呼ばれ、ミクサは閉じていた目を開いた。 「うぅん?」  ソファーに頭を預けて天井を見上げていたはずなのに、すぐには視点が合わなかった。  白い天井を背景に、デンと目の前に二枚の縦長の紙切れが提示されていたからだ。  顔にくっつくほど近くにあるため、そのチケットのようなものは影がかっている。近すぎてピントが合わない。  つまり、全く文字が読めない。と思っていたら、用途不明なそれが、ペラリと顔に落ちてきた。 「……何これ?」  一旦それを摘まんで押しのける。  そして寝ていた自分を無遠慮に起こした声の主に怪訝げな視線を向けた。 「あ、起きた」  金髪ショートヘアが印象的な高校生が顔を覗き込むようにこちらを見つめていた。  この部屋の主である少女。我の強い癖っ毛の持ち主で、例によってあらぬ方向にピンコピンコと髪が跳ねている。  フレッシュなオレンジのような瞳がどこか自慢げに緩められていた。 「えへへ、凄いやろ!」 「何が?」と思った以上に低い声が出た。  寝起きで頭が全くついていかない。  陸で俗に言う低血圧、なのかもしれない。 「あかんでミクサ〜。ほら、これ見てみ!」  見せつけられるように、再び紙切れが目の前を覆った。 「だからあんた、近いんだって。見えないし」  今度はそのチケットをちゃんと受け取ってミクサは身を起こした。途端に垂れてきた淡いラベンダー色の髪が少しだけ鬱陶しい。 「で、鈴秘(すずひ)。何これ?」  前髪を掻きあげて同じ質問をしつつ、まじまじと見下ろす。 「……旅館の無料宿泊チケット?」  正確には、『山瑚(さんご)荘無料宿泊券』とある。 「さっき商店街でな、くじ引きで当たってん」  彼女、猫宮鈴秘(ねこみやすずひ)はそう言って、ニシシと変な笑いをした。 「ペアチケットや。なぁミクサ。これで一緒に旅行いかへん?」  鈴秘はウズウズとした表情を浮かべている。  まるで自分の興味の向いたものに執着する猫みたいだと、ミクサはいつも思っている。 「ふぅん」とミクサは興味なさげに呟いた。  商店街の二位の景品、か。なかなか洒落たことをするじゃないの、とそんな感想以上のものは出てこない。  親しい友達を誘ったら? 正直あまり興味ないし。  そう言おうとした瞬間、その鼻腔にかすかな匂いが流れ込んだ。ハッと目を見開く。 「あれ、どうしたん?」  思わず手を離していた。ヒラヒラと、チケットが舞い、床に滑るように落ちる。  嫌な気の匂いがした。  それは海の(まじな)いの残り香。  床のチケットを見下ろす。まさか──。 「……あんた、どこでこれを?」 「嘘やん。ミクサ、話聞いとらんかったやろ」  鈴秘は頬を膨らませた。 「ごめん、語弊があったわね。これ、商店街で誰からもらったの?」 「え、誰って。……変な質問やな」今度は少し戸惑ったように視線を彷徨わせる。「男の人だったのは覚えてるけど、それ以上は覚えてへん」 「そう」と呟き、ミクサは考える。  鈴秘はまだ知らない。  ミクサを含む海に属する者たちに、密かに襲撃があっていることを。  その最たるは、ついこの間トールから聞いた(くだん)の列車での出来事。  現に、トールの話を聞く限り、鈴秘はのだという。  偶然、ではない。数少ない〈鶴〉である鈴秘に、その矛先が再び向いてもおかしくはない。  そしてまた、同じような手段でどこかに誘き寄せようとされている。  今に至り何もなかったとはいえ、仮に自分の知りえぬ時間軸で彼女が死んでいたのだとしたら──。  ミクサは自身の考えを振り払う。もしもの話で怖気づくなんてガラじゃない。  それに、こんなところで感情を昂らせるわけにもいかない。鈴秘に迷惑がかかる。  ミクサは無造作に垂れた長い髪を耳に流し、バッと立ち上がった。 「ミクサ、どうしたん?」  鈴秘がこちらを見上げていた。  その表情に心配そうな色が混じる。  どうして、鈴秘が嫌な思いをしないといけない。  貧乏くじなど、引いても捨ててしまえばいい。  それができるくらいの力は持っている。  鈴秘はいつだって脳天気に、無邪気に、ただ感情のままに笑っていればいいのだ。 「いいわ」と足元のチケットを拾い上げた。 「一緒に行きましょ」  ミクサは表層で鈴秘に笑いかける。内心はフツフツとした対抗心を(たた)えていた。  ──だったら、釣られたフリをしてやろうじゃないの。  鈴秘はぱちくりと目を瞬いていたが、 「そうこなくっちゃ。さすがミクサ」  すぐにニカリと曇りない笑顔を浮かべた。  この子に手を出す奴は、誰であっても許さない。  釣り餌として鈴秘を利用したこと、心底後悔させてやるわ、と。  そう、ミクサは密かに心に刻んでいた。
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