7.Return...?

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7.Return...?

翌朝はアラームが鳴るより先に目が覚めた。 鳥の声とカーテンの隙間から差し込む光に誘われて起き上がる。絵梨花に言われたことを思い出して鏡を見ると、睡眠はどんな高価な化粧品より勝る効果で肌をあげていてくれた。すっきり目覚めた爽快さで鼻歌など歌いながら朝の支度をして出勤した。医局のドアを開けた瞬間、うわー、何か先生、昨日から絶好調じゃありません?と明るい黛の声が響いた。慌てて見渡せば、大地の姿はなく、そんなことにすらホッと胸を撫でおろした。でも一体いつまでこんなことを続けるのだろう。姿が見えないことにホッとして、会いそうな場所には近づかない。こんなことを。 「あ、小笠原先生、今日のNSTカンファなんですけど予定通り二名の患者さんに、上郡先生から照会のあった田所さんを追加して三名でよろしいでしょうか?」 「田所さんって、あの食事療法がなかなか受け入れられない?」 「はい。そうなんです。担当のスタッフ全員が次の手を考えあぐねていて。」 「わかりました。まさにNST向きですね。」 「はい。私もそう思って。では後ほど、よろしくお願いします。」 そう明るく言うと、立花さんは元気な後ろ姿としか言い様のない溌剌さで歩いて行った。何ら変わりない。普通に上郡先生と言っていた。大地だって見かける度に、今までと変わりなく立花さんと接している。大人なんだ、皆。なのに私だけがウジウジしている。情けないなあ、全く。 昼ごはんからスタッフがそろそろ全員戻ってきて、でもまだ勤務開始には間がある時、私は珍しくステーションに出て来ていた絵梨花を見つけて話していた。他のスタッフたちもあちこちに固まって和やかに過ごしていた。こういう落ち着いた時は珍しい。 「ん、今日は顔合格。」 「ありがとうございまーす。」 「なに、何か使った?」 「ううん、熟眠です。」 「睡眠、最高か。」 「ですよね。」 「へえ、俺は眠れてないですけどね。」 突然声がしてギョッとして振り向けば、それでも本人が言わなければ全然そうとはわからない、相変わらずくっきりとした瞳が私たちを見下ろしていた。 「あら、眠れてないんですか?」 百も承知のくせに驚いた顔をしてみせる我が親友は。 「ですね。ところで小笠原先生、」 今日は名字呼びときた。そんなことを考えてたから隙があった。 「一昨日の夜、俺の部屋に置いて行ったこれ、持ってきましたけど。」 一瞬の静寂がステーションを包む。途端に全視線を浴びる羽目になる。目の前に突き出されているマスカラを震える手で受け取った。相変わらず長い指で挟まれているマスカラを。 「あ、りがとうございます。」 「良いですよ。でも今度は忘れない方がいいかもしれないですね。次の日、困るでしょうから。」 もうそれ以上言うな、何も言うな。ただ立ち去れ。ギリギリと睨むと、別にそれがどうした、という風情で見返される。 「さっ、午後の仕事始めますよ。それぞれ持ち場について。」 絵梨花の張りのある声が響き、ようやく空気が動いて、皆がそれぞれ仕事に戻り始めた。 「ちょっと一体どうしちゃったの?」 白衣の背中を押して医局へと連れ出す。 「何がですか?」 とぼけた大地を相手にするほど労力を使うことは無い。 「何がって…あんな、皆が誤解するような言い方、」 「何を誤解するんです?」 たちが悪い、本当に。 「だってあれじゃまるで…」 「まるで?」 「もういいっ。」 途端に悔しいのとバカらしいのとが混ざって腹立たしくなった。医局まで来たけれど、何の用も無い。むしろ午後のラウンドをしなくてはならない。 「私、行くから。」 「は?医局、何で引っ張ってきたんですか。」 「別に。ただいたたまれなくなって。」 「へえ。」 まただ。もう限界。 「ねえ、そのバカにしたみたいに“へえ”って言うの、止めてくれる?ものすごく気分悪くなるから。」 「最近、よく怒りますねえ。」 のらりくらりと交わされている。 「あー、もう何だか。せっかく昨日の夜は快眠ですっきりしてたのに。」 「一昨日は?」 「え?」 「一昨日はどうだったんです?あれから。無事に帰れたかずっと心配してたんですよ。」 「だってまだ11時前だったし、大地のところは人通りが多いし。全然大丈夫だったよ。」 「で、眠れたんですか?」 何だか圧を感じる。 「ええと、」 「ぐっすり?」 「あ…」 「俺は全然でしたけどね、昨日も一昨日も。」 「そ、うなんだ?」 「理由聞きたいですか?」 「遠慮しときます。」 「何で?」 「ロクなことにならなさそうだから。」 「ならなさそう、って、それ日本語?」 目を細めている。この視線は本当にまずい。気づけばまた前髪をいじってたりする。 「じゃあもう行くね、ラウンド。時間押してるし。」 身体の向きを変えようとした時、 「あ、そうだ、これも。マスカラだけじゃなく。」 そう言って白衣のポケットに何かを落とされた。 「え、何?」 「まあ仕事がひと段落した辺りででも見て下さい。」 「そうなの?」 「はい。じゃ、ほら行かないと。遅れますよ。」 早く行けとばかりに掌をひらひらと振っている。何だろう、もう。そう思いながら歩いて、それからちょっと振り返った。ニッコリと微笑み返す人に、訳もなく照れてちょっと手を上げた。もしかして背中が見送られているかもと思うだけで、全身が熱くなる。その熱を振り切るように急いで病室まで歩く。ポコポコと動くポケットの中の音を聞きながら。 「え?これ?」 もう薄暗くなった廊下で、特徴のあるオープンハートのキーホルダーがきらきら光っている、大地の笑顔のように。キーホルダー、結局また大地からもらってしまった。毎日、毎回取り出す度に大地を思う。その日々がまた続いて行く。そして何故だかそれを許されているように思えた。
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