5.訪問

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九時過ぎなら当然空腹だろうと、この間の絵梨花を見習ってデパートに滑り込み幾つかのデリを買い求めた。 本当に閉店ギリギリの時間だったので、全品半額だったのは嬉しい驚きだった。本当は今日話したい内容にはお酒も食事もそぐわないのだけれど、話したい私にはそうであっても、疲れて帰ってくる大地にはまた別のことで、そう思ってワインもやはり一本買い足した。冷えた白よりもじっくり味わう深い赤を。 帰り際に机の上にそっと置かれた鍵を大切にカバンにしまって、昔何回か来たことのある渋谷と神泉の間にある大地のマンションに着いた。エントランスをカードで開錠し、10階で降りて廊下の一番奥の1012号室の前で立ち止まり深呼吸をした。大地のいない大地の部屋に入るのは初めてだ。いくら「姉」の心構えだとしても心臓が激しく打ち息苦しい。もう一度目を閉じて深呼吸し、その勢いで鍵を回した。カチャリと廊下に音が響いて、慌てて身体を中へと押し込む。 「お邪魔しまーす。」 小声になり玄関脇のスイッチを探って電気をつける。大地の匂いがかすかにする。それ以外は何の動きも無い静寂な室内に明かりが灯った。私の部屋よりよほど片付いている。あまりに片付いているので、ここに人が本当に住んでいるのかと思うほどだ。ラックに一つだけ置いてあったスリッパを取り(大地のは玄関に揃えて置いてあったので)、そっと履く。全ての動作が密やかになってしまう。廊下を通ってリビングに入り、ここにも明かりをつける。以前と同じように大きなアイボリーのソファがありその前にはガラスのローテーブルが置かれている。ダイニングテーブルは焦げ茶色でその上には出しっぱなしのものなど何もない。 「うちだったらこうはいかないわ。」 家の食卓には常に読みかけの新聞やら封を切っていない郵便物やら、挙句の果てにアロマオイルまで乗っているのを思い出して、独り言ちてしまう。大地は本当に一貫して大地だ。病院での仕事ぶりを見ればわかっていたことだけど、どんなに仕事がかさんでも書類や文献が山積みで雪崩を起こしそうなんてことはない。いつも整理整頓、身ぎれいが標語のように似合っている。これだけ何でも出来ると自己完結してしまって、他人なんか必要でなくなるんじゃないかと思うけれど、彼女が途切れることは滅多にないから不思議だ。 この部屋を乱さないようにガチガチに緊張しながら食糧とお皿を並べ、ワインは冷蔵庫に入れた。ほとんど何も入っていない冷蔵庫に、大地の食事事情はどうなっているのだろうと心配になった。消化器内科のドクターがまさかコンビニ弁当とか外食オンリーとか、どうなの?今日、ちゃんと何か作って来れば良かったと今更のように後悔する。あれこれ準備してしまうと途端に落ち着かなくなり、一度座ると立ち上がれなくなる座り心地のソファーの端に腰を下ろした。ポーチを取り出しメイクを直す。何とかコンシーラーとパウダーを重ねたけれども、やっぱりこの色濃いクマは隠しようが無い。溜息をこぼしながらチークを指で叩き込んだところで、ドアベルが鳴った。心臓が一拍飛ばす。慌てて立ち上がったせいで、ポーチが転げ落ち中身が床に盛大にぶちまけられた。ああもう、何で?でもそんなことには構っていられない。ともかく廊下に飛び出し、息せき切ってドアを開けた。
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