35人が本棚に入れています
本棚に追加
「お帰りなさい。」
大地はなぜかその場に固まってしまったように瞬き一つせず立ち尽くしている。え、私、中に入ってちゃダメだったんだっけ?一瞬とてつもない間違いを起こしたように思い身体が縮こまる。
「ごめん、なさい。」
そこでようやく大地が瞬きをして、
「何で謝るんですか?謝るのはこっちですよ。遅くなってすみません。」
と言いながら入ってきた。あっ、メイク道具。
「さらにごめんなんだけど、私ちょっと先に行っていい?」
「は?え?」
ともかくあれを片付けなくちゃ。完璧に整っている家の中であの異物感は半端ない。私はバタバタと走りながらリビングに飛び込んだ。慌てて拾い集めていると、足音がしてあっという間に(そうだった。自宅だからと言ってスピードが遅くなる訳じゃないなんだ)スリッパの足が見えた。
「何してるんです?」
おかしそうな声がして見上げると、はるか真上に顔があった。確かに一日の疲れを滲ませているけれど、それでも大地はやっぱり大地だ。
「いや、あのごめんね。これぶちまけちゃって。」
何で今、大地の前で這いつくばらなくちゃいけないんだ、全くもう私ったら。心の中で最大に喚き散らしていると、海の香りが近くで香った。
「はい、どうぞ。」
とリップがその長い指から渡される。
「ありがと。」
しゃがんだ大地の顔があまりに近くにあり急いで顔をそむける。胸が苦しくなってさっさと立ち上がる。
「お腹減ってるかなと思って勝手に色々買ってきたけど、どうする?」
不釣り合いなほど明るい声が出た。大地はゆっくりとこちらを見上げてから立ち上がった。
「良いですね。さつきサンはお腹減ってませんか?」
今日は最初から「さつきサン」なんだな。いちいち反応してしまう自分に呆れながら、あ、でも、と思う。これで和やかに食べて飲んでしまったら、肝心の訊きたいことが訊けなくなってしまう。
「私はすぐ帰るから、後でゆっくり食べて。冷蔵庫に赤ワインも冷やしてあるよ。」
え?と驚いたように大地が顔を少し近づけてくる。
「今日はちょっと話したいことがあって。ごめんね、疲れてるところに。でもすぐに終わるから、ちょっといいかな?それ終わったら私帰るし。」
「そんなに何度も帰る帰るって言わなくていいですよ。」
怒ってるのかと思って目を覗き込めば、静かな海のような目に見返された。
「あ、と、ごめんね、そんなつもりじゃなかったんだけど。」
それだけで途方に暮れてしまう私は一体いつ40歳を超えたんだろう。
「とりあえず座りませんか?お互い立ちっぱなしの一日でしたよね。」
そう促されてソファーの中ほどに座る。大地はちょうど一人分ほど開けて隣に座った。この人が隣にいるだけで、どうしてこうも私は満たされてしまうのだろう。ただの知り合いなのに。もう何十年も。何十年経っても。
最初のコメントを投稿しよう!