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「あの、ね、」
「はい。」
「大地の好きだった人、私わかっちゃったんだ。」
「…」
返事が無いし大地を見る勇気も無いので前を向いたまま続ける。
「立花さんだったんだね。私、彼女を初めて見た時、何だか知ってるような気がしたんだ。立花さん、やまねに似てるよね。だからだった。私とても親しく思っちゃって。」
まだ沈黙が保たれている。普段だったら驚くほど話しやすく相槌を打ってくれる大地が黙っている。そのことに動揺してしまう。
「あ、ええと、だから何が言いたいかって言うとね。やっぱり大地はやまねなんだねって。」
息を吸う音がわずかに聞こえてきた。
「ずっと昔からきっとそうなんだね。」
「…だとしたら何なんです?」
大地にしてはとても低い声だった。
「うん?何かってわけじゃないけど、だからかなって。大地が私によく話しかけてくれたりするの。昔からの知り合いっていうのもあるかもしれないけど、私と話してるとその先にやまねが見えたりしてるんだろうなあって。姉妹だもんね。そんなに似てるとは思わないけど、やっぱりどこかは共通点あると思うし。」
「この話はどこに向かってるんですか?」
「えっ?」
「一体何が言いたいんです?俺がいまだにやまねを引き摺ってる?だから姉である貴女とよく話す?そんなことですか?」
ここまで挑戦的な大地を見るのは生まれて初めてで、頭の中が真っ白になりただおろおろしてしまう。
「え、あっと、そうだね。そんなとこ?」
愚にも付かない返事に苛立ったような溜息が聞こえてきた。
「さつきサン、」
「はい。」
「立花さんがやまねに似ているなんて俺は思ったこと、無いですよ。」
ズキリと心臓が痛む。やまねに似ているからこそ、自分から行くほど惹かれたんだろう。そう勝手に思って自分の結論に納得していた。なのに、そうではないと明言されて、それなら私にはもう考えも及ばない魅力に大地が惹かれたわけで、そのことが圧倒的に心にのしかかってきた。そうなんだ、そうか、そうだよね。当たり前だけど大地には大地の考えがきちんとあって私なんかが容易に推測出来るようなものじゃあない。
「それに、」
まだあるのか。
「引き摺ってるとしたら、俺なんかよりさつきサンの方がずっとですよね。」
えっ、まさか知られてた?いつから?何で気付かれちゃったんだろう。
「それはね、えーと、何て言ったらいいか。あの大地は全然気にしなくていいから。勝手に私が―」
「ですよね、さつきサンと兄貴のことですもんね。俺ごときが言うことじゃない、そう思って今までずっと来たんですけど。」
「え?兄貴って空?」
あまりにも思いがけない名前が出て来て混乱する。
「俺に兄貴は一人だけですけど。」
「う、ん。でも何でここで空?」
「中学の時からずっとそうですよね?青南にしたのも、J大にしたのも、挙句バレー部に入ったのだって。全部兄貴が理由じゃないですか。まあ兄貴が聖トマスに出たのは最大の誤算かもしれませんけど。」
「え、ちょっと待って、」
「だから、さつきサン風に言えば、兄と弟だから俺ともよく話すんですよね?俺が連絡しないで家に行ったって簡単に上げてくれる。埒もあかない話だって聞いてくれる。それも全部兄貴絡みだからですよね。」
「あの、ほんとに何て言えばいいか、」
「別に何も言わなくて良いですよ。ただ長いなあとは思いますけど。でもそこまで想われる兄貴は幸せだと思います。まあ俺が言うのもなんですけど、それだけの価値のある男だと思いますから。」
そう言って、大地は勝手に立ち上がってキッチンへ行ってしまった。しばらくすると戸棚からグラスを出す音がして、続いてコルクが開く音もしてきた。
「飲みませんか?素面で話すようなことじゃない気がするんで。」
私の前にそっと置いたグラスに自分のグラスを合わせて、兄と妹に乾杯、と言って空は一気にワインをあおった。
「あ、すきっ腹にそれは毒だよ。食べよう?ね、まず何かお腹に入れなきゃ。」
慌てて言った私に、
「帰るんですよね?話終わったらすぐ帰るって何度も念を押してたじゃありませんか。」
お腹の底から出るような声が降ってくる。さっきから好戦的な大地が今どんな瞳をしているのか見るのが怖くて、目を逸らしたまま頷く。
「あ、そうだったね。ごめんね、何だかさっぱり訳のわからない話なんてして。疲れてるのに、ほんとごめん。」
手元にカバンを引き寄せて立ち上がると、
「逃げ足、本当に速いな。」
大地の言葉とも思えない何かが聞こえてきた。
「え、何か言った?」
「いつも逃げるのが上手だって言ったんですよ。」
「な、にを、言いたいの?」
「何でしょうね。」
「さっぱりわからない。帰る。」
なのに、ソファからどいてくれないから全然通れない。
「さつきサン、」
「何?」
「いつ告うんです、兄貴に?って言うか告うんですか?」
「だから何それ。さっきから。私がいつ空を好きなんて―」
「中学の時。」
あ。
「あれなんてもう遠い話でしょう?もう全然関係無い。」
「全然?」
「うん、そう。それに空はもう家族のお父さんじゃない。」
「お父さんでも何でも気持ち、伝えないんですか?」
何でだろう、話が全然かみ合わない。
「何でそんな誤解してるのかわからないけど、私、とっくの昔から空のこと、何とも思ってないよ?」
「じゃあ何で兄貴の行くところばかり行くんです?」
それはそうしたら貴方が来てくれると思ったから。
「偶然でしょ。」
「偶然で全部かぶりますかね。」
いい加減この不毛なやり取りに嫌気がさしてきた。
「かぶったんだから仕方無いじゃない。それとも貴方、そんなことにもいちいち目くじら立てるわけ?私、貴方の大事なお兄さんのストーカーじゃないわよ。」
「じゃあどうして―」
「じゃあ何で?じゃあどうして?一体今日はどうしちゃったの?いつもの大地らしく無いじゃない。私が違うって言ってるんだからそのまま素直に受け取ってよ。」
最後はほとんど怒鳴っていた。足を踏ん張って。顔はもう真っ赤になっているに違いない。やましいことがあるから逆にこの怒りようだ。なのに眼下の人は顔色一つ変えずに相変わらず端然としている。
「“じゃあ”ついでに最後、一つだけ良いですか?」
渋々頷くと、大地が立ち上がった。ローテーブルとソファとの間で二人が立ち上がれば距離なんてほとんど無い。鼻先に大地のYシャツがこすれる。心臓の音が部屋中に響き渡っているような気になる。
「じゃあ何で俺と親しくするんです?」
背中を汗が伝った。
「し、親しいって、」
「ですよね。そうじゃないですか?現に貴女は今ここにいる。」
「そ、れは、昔から知ってるから…」
「へえ。」
この「へえ」は聞き覚えがある。あの時の「へえ」と同じ響きだ。
「さつきサンは昔から知っていれば、どんな男の部屋にでも上がるんですか。」
「そ、そんなことは無いけど。」
「じゃあ何で?」
こんなに接近してこんな質問を受けるなんて。あまりにも予想外過ぎて頭が働かない。よく知っている海の香りがたゆとう。
「あの、」
「何ですか?」
大地の声が掠れている。私の声は震えている。
「これ…返す。」
私は自分のカバンから鍵を出して鈴のキーホルダーを乱暴に外して、大地の胸に押し付けた。
「え?」
「もういらないから。」
ひるんだ大地を押しのけて玄関まで走った。その勢いで外に出る。真っ暗な冬空に星が瞬いている。この辺りは人通りが多くて助かった。そう言えば渋谷まで徒歩圏内だもんな。そんなことを考え続けて家に戻った。そうでもしないと身体が震えて歩けなくなりそうだったから。
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