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朝出かけたままの、ガランとした部屋に当たり前のように大地が入ってくる。
湿ったようなこもった空気が嫌で、さっさとリビング中の窓を開け放つ。
「ワイン、一応冷蔵庫入れときますよ。」
勝手知ったる他人の家だ。そんなに近い間柄では全然ないと思うのに。
「あー、うんありがとう。ちょっと手洗ってくるわ。大地もその辺で適当に洗っておいて。」
はい先生、とおどけた声が聞こえてキッチンの水が流れ始める音が聞こえてきた。
どうしよう、着替えたら変だよね。でも、今朝時間が無くてその辺にあったのを適当に合わせたコーディネートで大地の前に座りたくない。顔だって今の時刻にはもう見られたものじゃないはずだ。やっぱり部屋に行こう。私は寝室に入り、クローゼットを開けた。でも心臓がうるさくて頭がなかなか働かない。結局シンプル極まりない紺色のカットソーの膝丈ワンピースに袖を通す。鏡を覗いてぎょっとしつつ、最低限のメイク直しをする。エタニティは、直接だとあまりにもわざとらしいので、空気にまとわせたものに身体をくぐらせる。
「ごめんね、時間かかった。」
そう言ってリビングに入った途端に胸が詰まる。長い脚を組んでゆったりと座っているだけの姿なのに。大地は携帯からゆっくりと目を上げるとそのままにっこりと微笑んだ。
「さつきセンセ、綺麗ですね。」
この男は。全く、息をするように自然に誉め言葉が口をつく。そんなの今に始まったことじゃない。大地は小学生の頃からすでに中身はイタリア男のようだった。だから真に受けるなんてまっとうじゃない。なのにいちいち真に受けたままもう何十年だ。
「スーツ、そこでいいの?ハンガー渡そうか?」
ソファーの背もたれに無造作にかけてあるライトグレーの上着にちらりと目をやって、大地は大丈夫ですよ、安もんだし、と軽く答える。
「お腹は?私、ちょっと減っちゃって。昨日の残りもの食べたいんだけど。」
オープンキッチンになっている方へ回りこみながら、しまった、よりによって餃子だわ、と思った。
「いいですね、残り物。俺もお相伴していいですか?」
大地は時と場合によって、僕、わたし、俺、と使い分ける。私には病棟では僕、それ以外では俺。だからどうってこともないけれど、毎回心の中で確認している。
「いいけど、餃子だよ?」
ブッと吹き出す。
「何よ?」
「いや、なんかさつきセンセと餃子って妙な取り組み合わせだと思って。」
「妙?」
「さつきセンセはこう正統派な和食が似合うって感じだから。」
「なによ、その何と言うかババくさい扱いは。」
「それ、和食に失礼ですよ。」
たしなめられる。まあ確かに和食は一番好きだけど。心身ともに落ち着くから。
「でも料理上手ですよね。」
急に投げられた直球に上手く受け答えが出来ない。
「…」
「ま、そんなにご馳走になったことないですけど。餃子、意外に白に合うんじゃないですかね。」
さっさと会話を切り替えられる。この辺りの絶妙さ加減に心から感心する。
「どうする?焼きあがる前に乾杯しようか?」
「あ、ですね。俺、喉乾いてるんで、そうして頂けると嬉しいです。」
そう言いながら、大股であっと言う間に冷蔵庫に顔を突っ込んでいる。大地の移動は素早い。病棟だともう風のようだ。さっきまでここにいたのに、もう病棟の端の病室に入っていたりする。
「じゃあ、はい。これ使って。」
すぐに開けられるとの謳い文句通りに、あっという間に開栓出来るのを至極気に入っているオランダ製のオープナーを渡す。
「ああ、これ?この器具感、なんか病棟にいるみたいですよね。」
「え?何が?どの辺が?」
大地は片頬で笑って、説明もしていないのに、器用にオープナーを扱って、またあっという間にコルクを引き抜いた。大地ははるか昔の新人時代から手先の器用さが際立っていた。指が長く大きな手は確かに様々な機器を扱うには都合が良いのだろうけれど、それだけではない勘の良さのようなものが備わっていた。慌てて出したグラスに静かにワインが注がれる。薄い金色のベールのような色にフルーティな芳香が立ち上る。
「いい匂い。ピーチっぽい?」
「お疲れかと思って、ちょっと甘めにしました。」
「細やかなお気遣い、どうもありがとう。」
どういたしましてと掲げられたグラスにそっとグラスを合わせて、香りをゆっくりと鼻の奥まで通しながら目を閉じて金色の液体を味わう。ふわりとした夢に包まれるようなワインだ。
「ふうっ、美味しい。」
どうやらその一部始終を眺めていたような目で微笑まれる。
「良かったです。今週もお疲れ様でした。」
「いーえ、医長ほどじゃありませんって。」
「またまたご謙遜を。センセの患者数、半端ないじゃないですか?おまけにNST(栄養サポートチーム)兼任って。」
「NSTは楽しいから。それに患者数、外来と合わせたら大地ととんとんよ。」
楽しいのは何よりです、とワインに向かって言う横顔を眺めた。長いまつ毛、くっきりとした二重、口角の笑い皺。もう何千回見つめたことだろう。それなのに一瞬逸らすのが遅れただけで、
「どうかしました?」
いつもと同じ問いが飛んでくる。女性のそんな視線なんて慣れ過ぎているはずだのに、だから意味だって百も承知だろうに、何だっていつも訊くのだろう。私にはその顔をそっと見ることすら許されないのだろうか。だから結局いつもと同じ答えを返す。
「ううん、何でもない。」
そしていつものように大地はちょっと目元を緩めただけで何も言わない。
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