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「さてと、餃子、焼くね。大地は適当に飲んでて。」
グラスを飲み干して立ち上がると、
「お世話になります。」
おどけたような声が聞こえてきた。餃子と白ワインは意外にも合った。思っていたよりも残っていた餃子をせっせと焼き続けると、夜食には食べきれないくらいの量になり、でもそれも美味しいワインのお陰でどんどん減っていく。
「ところで、」
切り出してみると、
「はい。」
面白そうな目で見返される。
「今日のアジェンダですが、」
「ああ、はい。」
「玉砕?」
いきなりそこ来ますかと言いながらボトルを取りあげ、私のグラスに注いでくれる。
「ありがとう。」
「どーいたしまして。」
またもやおどけたように言って、自分のグラスにも足すと(大地の大きな手に握られるとワインのボトルが俄然華奢に見える)、じゃあアジェンダに乾杯とグラスを掲げて見せる。乾杯と言って良い内容なのかわからず、無言でグラスをそっと掲げた。
「って言っても結構前の話なんですけど。」
「えっ?」
「いや、そんなに驚かなくても。」
「だって私全然気付かなかった。」
さすがに40過ぎてますからね、周囲にそんなに悟られる騒ぎ方しませんよ、と苦笑される。
「いつ頃?って訊いてもいいのかな。」
「いいですよ、さつきセンセなら。そうだな一年半くらい過ぎてますかね、去年の一月だったので。」
「えっ、そんなに?何でもっと早く言ってくれなかったの?」
目をすがめられた。あ、失言。その責任を取らされている、この視線で。あまりにもどぎまぎさせられて、気付けば前髪をいじったりせざるを得ない。
「まあ相手が悪かったですよ。」
「相手って、好きになった人?」
「いや、それは悪いとか言いませんよ、たとえフラれたって。そうじゃなくてその彼女が想ってる相手が。」
そう言ってまたワインを口に含んだ。間をとるところを見ると、今回は相当胸にきたようだ。玉砕なんて。この大地が?20代以来聞いたことがない。
「相手って、知ってるの?」
「はい。さつきセンセも。」
「ええっ、私も知ってるの?っていうことは院内?」
頷いている。院内で大地が勝てない相手?そんな人いたっけ?このミスターJ五連覇の男が。そこまで考えて思い至った。六連覇を阻んだ人。もしかしてあの人か?
「…それって薬剤部の日高さん?」
一瞬苦々しい光が走って、でもすぐにいつもの穏やかで明るい目になった。
「そうなんだ…でも、日高さんって独身だよね?」
「ですね。俺もですけど。」
「ん、いやそうなんだけど。もう院内の七不思議の二つを君たちで独占してるっていう。」
大地が黙ってワインをすするので、私も口をつぐんだ。甘めのワインはもしかしたら少しだけ心を甘やかすために選んだのかもしれない。強い気持ちの時は後ろに引っ張られそうになる甘味は、弱っている時には優しくかくまってくれるから。そんなことを思いながら、私も自分の弱い心を溶かしてしまおうとワインを多めに口に含む。
「聞いたことありません?日高さんの有名な“特別な友だち”って。」
「ああ、そう言えば聞いたことがあるような無いような?」
「さつきセンセくらいじゃないですかね、日高関連でそこまでボーッとしてるのって。」
「悪かったわね。でもそう言えば確か黛辺りが騒いでたかも。」
専攻医ニ年目を迎えてもまだふうわりとしている後輩の顔を思い出しながら言った。
「ああ、言いそうだな。」
苦笑している。
「でも、黛入って来た時は大地一択だったよね。」
「いや、それは。」
有名だった。まあ女性の研修医は(上級医も)大抵まず大地に惹かれるのだけれど、黛の場合は公開告白を(なぜかステーションで)して、皆の度肝を抜いたのだった。あっさりとフラれて大泣きして、また皆の度肝を抜いた。患者さん数名に慰められているのを私も見た。とにもかくにも隠し事が出来ない黛なのである。その彼女が確かに“特別な友だち”と騒いでいたような気がする。
「え、じゃあその“特別な友だち”を略奪しようとしたの、大地が?」
「いや、略奪ってわけじゃ。ただ割って入れるかなとは思ったんですけど。」
「…無理だったと。」
「はい。」
「あれ、でも日高さん誰かと付き合ってるって話も聞かないけど?だってそうしたらまた黛辺りがショックですぅとか大騒ぎしてそうだけど。」
似てますね、さつきサン、と口角が上がっている。あ、だいぶリラックスして来たな。大地は一人称だけでなく相手の呼び方も時に応じて変える、気がする。まあ私が言えるのは自分に限っての話なんだけど。
「付き合ってないですよ。だから友だち、なんですよ。」
「でも、特別、なんだ。」
「みたいですね。」
「友だちだったら奪えそうなのにね、大地なら。」
あっはっはと全然愉快そうでない笑い声をたてている。
「あの人は怪物なんですよ、俺たち兄弟にとっては。」
「兄弟?え、空もなの?」
思わず空と呼んでしまったことに気付いたのは、大地の視線を感じてだった。もう大人になってからはずっと君付けで呼んでいたのに。
「そうですよ。ヒダシンには。」
「ヒダシン…?ちょっと待って、何か聞いたことがある。え、ヒダシンってあのヒダシン?」
「思い出しましたか?」
「思い出した、思い出した。っていうか、ほんとにあのヒダシンなの?ヒビキタのスーパーエースの?」
「そうですよ。俺ら、今、毎週経験者が集まってバレーやってるんですよ。その主幹。」
「うわあ、懐かしい。」
「ですよね、そう言えばさつきサンはもう全然ですか、バレー?」
「うん。もう全然。」
「惜しいですね。すごかったのに。」
「いや、もう昔過ぎて…え、じゃあ日高さん、相変わらず?」
「相変わらず。情け容赦無いですよ。」
「大地でも?」
「まあ互角程度には何とかもってってるとは思いますけど。」
「大地のバックアタック、また見てみたいなあ。」
「いや、もう跳べ無さ過ぎですけど。良かったら見に来たらいいじゃないですか。」
「え、ほんとに?行ってもいいの?」
「全然構いませんよ。」
へえ、そうなんだ、あのヒダシンが日高さんだったとは。でもそう言われれば確かに面影がある。じゃあ大地が苦戦するのもわかるかな。何せアウエーでの練習試合の帰り際に、うちの学校の子から告白されてるのを私も見たことがあるくらいだったから。
「この年でも勝てない相手がいるとかって、結構くる。」
全くこれだから常勝人間は。
「なに言ってんのよ?そんなの全世界中から患者さんがぞろぞろ集まってくるゴッドハンドになってから言いなさいって。」
目を丸くしてキョトンとした大地はすぐに破顔一笑した。
「え、なに、そんなに面白いこと言ったっけ?」
あまりに笑われているのでとうとう戸惑ってそう言えば、
「いや、さつきサン、最高です。だからついこんな時にはつい頼っちゃうんですよね。」
とサラリと返される。こんな時だけですよね、とすぐさま心の中で呟く。
「それで…今は大丈夫なの?その、日高さんともわだかまり無し?」
「無いですよ。多分。」
「多分って。」
きっとすごく心配そうな顔になっていたんだろう。
「大丈夫ですって。その後激しくバレーやってますし。」
「まさかコートで決着とかやってんの?」
また笑われた。
「そんな高校生みたいな。ってでもやってんのか、結構?」
首を傾げたりしているから勘弁してほしい。
「怪我だけは二人とも気をつけてよ。日高さんが病欠とかいったら病院回らないから。」
「そこは俺の方をたててくれませんかね。」
呆れたように睨まれる。
「うーん、でも大地の分は私カバー出来るし。でも日高さんの分は無理だからなあ。」
そこまで言って気付いた。
「ねえ、ちょっと待って。日高さん、知ってるの?大地が、その―」
「告白したことですか?」
胸がずきりと痛む。したんだ、やっぱり。自分からだなんてここ何年も聞いてなかったのに。
「うん。」
顔に落胆が現れてないことを祈りながら頷く。
「知ってると思いますよ。あのバレーの感じじゃ。」
「そうなんだ…でもきっとものすごく焦ったと思うよ、大地が来たなんて。」
「んー、どうですかね。あの人が焦るの、想像出来ますか?」
私はいつも涼し気に膨大な量のカルテをさばく顔を思い浮かべた。でも。
「仕事とプライベートは全然違うと思うよ。だから大丈夫。」
「は?大丈夫って―」
そう言うなりまた笑い始めた。ワイン一本くらいではお互い酔いはしないので、これは単にまた私が何かおかしなことを言ったんだろう。
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