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「あー、何だか笑い過ぎて妙にスッキリしました。餃子も最高に美味しかったし。」
そう言いながら大地は腕時計に目を落とした。
「そろそろ帰ります。急襲してすみませんでした。」
「あ、ううん、そんな。」
さっさとお皿とグラスをシンクに運んでくれる。
「洗って行きましょうか?」
大地のお母さんはバリバリのナースで、この兄弟は小さい頃からみっちり家事を仕込まれてきたのを知っている。だから、こんなスーツ姿のゲストが言うにはあまりにも違和感がある台詞が聞こえて来ても、別にもう驚きはしない。
「ううん、ちょっとだけだから大丈夫。ありがとう。」
そうですか、と言いながらソファーの背から上着を取り上げる。行ってしまう。もうすぐに。でもいつものように唇はこわばり、止める言葉なんて出てくるはずもない。それでも無駄なあがきをしてしまう。
「今日の研究会どうだった?」
「ああ、いつも通りでしたよ。高齢者のDM(糖尿病)の治療の特徴を強調しておきましたけど。」
「全体的なQOLの方が治療より重きをおかれるべきだっていう、アレ?」
「はい。」
「大地はナース寄りだから頼りにされるよね。」
「はは、何ですか、それ。」
そう言いながら革靴に足を入れている。
ー行かないで
「患者さんを人間として捉えてるってこと。」
ー行かないで
「そんなのさつきサンだってそうじゃないですか。うちの兄もそうですよ。当たり前のことで。」
ー行かないで
「そう、かな。」
スーツの上着は手にかけたまま、こっちを振り返った。正面で向かい合うと、改めてその背の高さに驚く。変なの、病棟でいつも白衣姿を見ているのに。
ー行かないで
「夜分にすみませんでした。それからご馳走様でした。じゃあ、また病棟で。」
「あっ、」
「はい?」
「えーと、明日は行く、病棟?」
「んー、一応皆さん落ち着いてるんで。呼び出しがなかったら日曜にサラッと行くかな。」
「そう。」
「さつきサンは行くんですか?」
「そうだね、私の方も落ち着いてるから日曜、かな。」
「じゃあ会えそうですね。」
「うん、だね。」
「じゃ、おやすみなさい。あんまり遅くまで仕事しないで下さいよ。」
「はい、先生。」
あはは、と綺麗な笑顔を残してドアが閉まった。じゃあ、会えそうですね。そんな一言を何度も反芻している。結局今日も言えなかった、行かないで、なんて。私はこうして永久に口をつぐむのだろうか。グラスに残っていたわずかなワインに口をつける。もうどんよりと温まっているそれはどろりと胸に落ちていく。何もすっきりしない。まるで私そのものだ。ボトルに最後に残っている、適温から程遠くさっさと流しに捨てられてしまう残りかすは。
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