3.出会いと別れ

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3.出会いと別れ

30代半ばになって、そんな私を見初めてくれる優しいドクターが現れた。 少し年上の、他院から赴任してきた人だった。仕事も当たり前のようによく出来るし、患者さんにも同僚にも敬意を持って接することの出来る温かな人で、それゆえに静かな人気があった。 「小笠原先生、今日のプレゼン、さすがでしたよ。」 「え?そうですか?何だかバタバタしていてやっつけ仕事みたいになっちゃったんですけど。」 「そんな風にはとても。先生はいつもとても丁寧な仕事をされますから。」 「いえ、そんな滅相も無い。」 「滅相?」 目を細めて笑うその人のことを確かに素敵だなと思った。仕事が終わる時間が何度か重なって、遅い簡単な夕食を共にするようになった。同じ科の先輩医師だから仕事の話は尽きない。広い視野と深い知見とで何度も目を開かせてもらった。温かな尊敬のような気持ちで接していたその彼から週末のデートに誘われた。いつもは落ち着いているくせに、その時は妙に目を逸らせたりして緊張しているのも可愛かった。一緒にいるのはとても楽しかったから二つ返事をした。大地のことは勿論同僚だから、毎日見かけるし言葉も交わす。でも、「姉」なんだからとその度に自分に言い聞かせた。姉は自分の交際の進捗を「弟」に相談したりしない。「弟」が今どんな恋愛をしているのか、わざわざ自分から聞いたりしない。 でも、段々と先輩医師との仲が深まるにつれ、心のほんの隅っこにどうしても埋まらない空間があるのに気づいた。その空間は普段は遠慮がちに隠れているのに、ふとした瞬間に姿を現す。例えば、一緒に笑い合って三日月のように細くなる瞳に、珍しい笑顔を見たような気になる時、隣を歩く顔を見上げて、視線が上になり過ぎたのに気付いて目を少し下げる時、ワインの二本目を開けようとして目の前の人はそんなにお酒が強くないと思い直す時。日常の様々な場面でふいに立ち上るこうした揺らぎは、その場では気のせいと思ってやり過ごすことが出来るのだけれど、積もり積もるとボディーブローのようにきいてくる。楽しい夕べを過ごして、決して泊まることなどしない紳士的な彼を見送った後、お皿を洗っているとどうしようもない疲労と寂寥が押し寄せてくる。あんなに楽しかったし夢中になったのに。夜更けの流しで蛇口から流れ出る水に温かな雫がぽつぽつと混じるのを見ていた。
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