4.親友

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4.親友

「さつき、飲もう。」 無駄を省く誘い文句はもはやジェンダーレスだ。PCに影が差して、微かにピリッとするペッパー系の香りが香った。 「いいけど、結構かかるよ、今日。症例報告会があるし。」 見上げると、だから何、という顔をした絵梨花(えりか)が立っていた。 「うちらだって勉強会あんのよ。ほらDMの新薬についてさ。」 「ああ。オートファジーの?」 「うん。そう言えばそれおたくの大地クンが話してくれるはずだけど?でも症例報告あるんでしょ?」 おたくの、というのはどういう意味か、深堀りしたくなる心を抑えて何気ない声を出す。 「何時から?」 「うちの?日勤直後だから18時から。」 「ああ。うちは19時からだわ。」 「うげ、じゃあなに、終わるのとか20時とか?」 「んだねえ。」 「ま、いっか。明日私オフだし。」 「へえ、珍しいじゃない、土曜日オフ。」 「まあね。あんたは?」 「私もオフ。」 「じゃあ、あんたんちにする?家にする?」 「いきなりの宅飲みですか。んじゃあ、お待たせしそうだから絵梨花んちにする?」 「花金の相談ですか?」 楽しそうな声がはるか上から降ってくる。こちらは海の香りだ。 「そうですよー、だから先生、さっさと勉強会終わらせて下さいね。」 講師にいきなりそれを言えるのは師長の強みだろう。 「ざっくり言って30分、集中持ちますか?」 「んー、先生の出来いかんじゃないですか?面白ければナースたちはちゃんと聞きますよ。」 はは、相変わらず厳しいなと笑っている大地に、 「ああ、そう言えば池上さん、午後に息子さんがいらっしゃるそうですけど、お話されますか?」 絵梨花が途端にナースの口ぶりに豹変した。 「そうですか、それは是非。いらしたら声をかけて下さい。」 こっちも豹変だ。 「わかりました。では今日の担当は高橋ですから伝えときますね。」 「よろしくお願いします。あ、それと、」 「何でしょう?」 「お二人とも肝臓を過信せずに。」 「年だって喧嘩売ってます、それ?」 「いえいえ、医者の親切心ですよ。」 最後ににっこりと微笑むと大地はあっという間にステーションからいなくなった。 「ああいうところ。ほんと、さつきは苦労するね。」 「いや、私は別に。」 「あんたはそういうところ。あーあー、やってらんないわ。」 首を左右に鳴らしながら、恐ろしくカッコよく絵梨花は病室に入ろうとしていた高橋さんを呼び止めた。さてと私もさっさとオーダー完了しないと。今夜の絵梨花宅のことを思うと自然と笑みが浮かんだ。久しぶりだ、友だちと飲むなんて。 「っていうかさ、あんた、まだうじってるわけ?」 二本目のボトルに手をかけながら絵梨花が喚く。 「うじってるって師長さん、日本語変ですよ。」 「んだって、もう何年、今風の言い方だと“こじらせてる”んだっけ?」 「今風って。それ結構もう市民権得て長いから。」 「だけどさあ、あたしらがそういうワカモノ言葉使う時って相当気をつけないとニュアンス外すじゃない?気をつけててもいかんせん雰囲気つかみ損ねてるっていうか。だから緊張すんのよね。で、うじる。」 「あー。」 「深く頷いてんじゃないわよ。で、何年?」 「うーん、もう長すぎてもはや数えてない。」 「だよねえ。一応高光(たかみつ)時代は抜くとして、軽く20年とかいってんじゃない?」 「なんかそれ、前に大地にも言われたわ。」 「何て?」 「ん?」 「だからアイツの反応は?」 「''うわ、まじっ?"」 「無駄に真似上手いわ、あんた。伊達に20年以上辛気臭くくっついてるわけじゃないわね。」 「辛辣―。もうちょっとないの、こうオブラートに包むとかって。」 「無いねえ。勤務時間中ずーっとオブラートくるみまくりだから。もう残ってないわ、オブラート。」 「ね、知ってる?オブラートってオランダ語なんだよ。」 「いいってそういうトリビア的知識は。」 「んじゃあ、膵β細胞の発生メカニズム、もうちょい掘ってみる?」 「あー嫌だねえ、これだから医者と飲むのは。」 そう言いながら、もうグラスを飲み干している。 「もうちょっと味わいなよ。これ結構上等のボルドー。」 「でしょ?わかってるからペース上がって仕方ないわけ。」 「いやだねえ、ナースと飲むのは。ああいえばこういう。」 「お互い様だって。」 先に仕事をあがった絵梨花が山のように買っておいてくれたデリに舌鼓を打ちながらさんざん食べる。 「この生ハム、おいっしい。さつき、食べた?」 そう言いながら、もうお皿に乗せてくれている。さすがナース。 「うん、ワインに合うねえ。」 「あうあう。三本目はまた白に戻す?」 「あんた、まだ半分もいってないのにもう次の話?」 「リスク管理よ。」 「どこが。」 「で、さあ、」 「何?」 「だから大地クンとあんただって。」 「いや、だから進展も何もないまんまですよ。あ、」 「何よ、あ、って。」 「訊きたいことあったんだよね。絵梨花、薬剤部の日高さんって知ってるでしょ?」 「あ…んた。知ってるとかって寝ぼけてんの?ジェントル日高、もしくはスーパー日高だって。」 「なんかそれ特急っぽい。」 何でか笑い始めたら止まらなくなった。 「やだ、あんたもう酔ってんの?じゃあ三本目は私オンリーね。」 「酔ってないって。で、じゃあさ、その日高さんの噂って知ってる?」 「あり過ぎて。もうちょい特化お願い。」 「“特別な友だち”?」 ああ、キターッ、とこれは安心して使ってるフレーズなようで、絵梨花がクッションに倒れこむ。 「え、なに、どうしたの?」 「それさ、もう院内女子全員のトラウマ用語よ。」 「院内女子って…私も入ってんの?」 「んー、そうか、あんたは除外か。あの日高さんになびかないとかってもはや珍獣。」 「珍獣ってひどくない?ま、でもそれはいいけど、その“特別な友だち”って何?」 「あー、あんたはそこからか。それね、日高さんが断る時に使う常套文句なの。」 「断る?」 「そう。並み居る告白女子たちをぶった切る時に言うらしいの、いつも。その友だちがいるから付き合えないって。」 「そうなんだ。それは…何て言うか、日高さんらしいね。」 「うん、だよね。ジェントルな感じがね。で、何であんたがこんな今更な質問してくるわけ?なに、もううじるの止めてスライドする?」 「スライドとかって、それ失礼だから日高さんに。って違う違う。いや、この間大地が家来てさ、」 「えー、またあ?」 そのリアクションに苦笑してしまう。確かに一年のうち何回かはフッと訪れる。ワインを持って。 「うん、でその“特別な友だち”のことを言ったから。」 「へ、何で?あそこつながりあったっけ?」 「ああ、日高さんって私たちの間じゃ高校時代からバレーで有名だったのよ。あとはモテ具合でも。」 「へえ、そうなんだ。そういやあんたたち同じ高校って言ってたもんね。」 「うん、そう。」 余計なことを言わなくていいように、残り物の野菜スティックを全部とってバーニャカウダのディップに浸す。 「ふうーん。ま、いまいち関係見えないけどいいか。あのね、誰も真相は知らないよ、“特別な友だち”が誰かってことは。でも限りなく真実に近い名前は上がってる。」 「なんか、ミステリーの解き明かしみたい。」 余裕があったのはここまでだった。その名前を聞いた時、鼓動が飛び全てが腑に落ちたから。 「うちの栄養士の立花さんだって。」 「た、ちばなさん?」 「うん。あの二人よく一緒にお弁当食べてるし、何より立花さんと一緒にいる時の日高さんが素敵過ぎるらしいよ。ものすごく優しい目で立花さんを見てるんだって。私も直接は見たこと無いから全部又聞きなんだけど。」 立花梓さん。NSTで一緒の、多分同い年の。初めて見た時、何でだか前から知っているような気がして、しばらく考えて思い当たった。やまねに何となく似ているのだ。明るく元気で優しくて。患者さんをその黒い瞳でじっと見て温かな相槌を打つ。だから大地は― 「ちょっと大丈夫?顔色悪いけど。気持ち悪いとかある?」 さすがのナースにあっという間に心配される。 「ん、そう?大丈夫だけど。ちょっとお水もらっていい?」 「あ、うん、それは勿論。」 そう言って絵梨花がさっとキッチンに行くのを見送って、息を大きく吐いた。ここ何年で大地が自分から()うなんて無かった。もしかしたら、やまね以来だったかもしれない。その相手がやまねによく似ているなんて。やっぱり大地の心の中にはやまねがずっと棲んでいるのだろう。 「はい、お水。ほんとに平気?」 「ありがと。うん、大丈夫。」 受け取った冷たい水を一気に飲み干した。氷でできたナイフのように、それは食道まで一気に切り裂いた。
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