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5.訪問
「どうかしました?」
もう三回も訊かれている。知らず知らずのうちに横顔を窺っているらしい。前方では二年目が担当の患者さんの治療計画をプレゼンしている。
「何でも。」
「マジで三回同じ返事って何ですか。」
わずかに身を乗り出して囁かれた。ただそれだけなのに右側の頬が火照る。慌てて、左耳で聞いていた内容を手元の資料に書きつける。それをじっと見ていた大地は、私が書く手を止めないので、ようやく視線を外して前に向き直った。ダメだ、やっぱり。このところもうずっと一つのことだけが頭に浮かんでいる。ボールペンで隣の左肘を突く。ん?と無言で私を見るその視野に入るようにボールペンを動かす。
今日、帰り何時くらい?
え?と目が大きくなり、でもすぐに大地がいつも使っている濃紺のペンが動いて、
多分9時過ぎ
と書かれる。大地の字は綺麗で読みやすい。兄の空とは大違い。
わかった
それだけ書くと、いぶかしげに顔を見てくる視線を切ってまた二年目の顔に集中した。
ようやくプレゼンが終わり、さっさとドアから出ようとしたところで、
「何ですか、さっきの。」
と声が追いかけてきた。
「さっきの?」
「そう。今夜のこと。」
「ああ。」
他に言うことも思い浮かばずそのまま廊下に出る。隣に並ばれる。海の微かな香りが漂う。この香り、いつからつけるようになったんだろう?やまねのプレゼントとかかな。私は結局留学のまま、イタリアに居ついてしまった妹のことをもう何度目か思い出した。やまねと別れてだいぶ経った頃、一度だけ大地が「イタリア人には勝てねえ」と呟いたことがあり、それが二人の別れた原因だったのかなと思った記憶がある。いつだって私たちの会話はこんなもので、大地が何かを言っても私は滅多に踏み込まない。踏み込むことで聞きたくないことまで知ってしまったり、不用意な言葉を漏らしてしまう危険を避ける為に。かように私は臆病者だ。でも、それでも今夜は訊きたい。結局やまねなのかと。
「もしかして家に来ます?」
考えながら歩いていたのですぐには頭が追いつかなかった。
「え?」
「来るなら鍵渡しますんで。俺みたいに外で待つとかしないで下さいね、不用心ですから。帰る時声かけて下さい。」
それだけ言うと、私を追い抜いて大地は歩いて行った。やっぱり私ごときが先んじようとしても、大地はとっくにその先を読んでいる。およそ恋愛初心者と、行く先々で恋愛の中心になる上級者とでは立つ土俵すら違う。白衣の背中をぼんやり見送った。
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