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 智哉がなんだって言うんだろう。  座敷ではしゃぎ、並べた布団の上を転げまわっている弟を眺めて私は思った。  智哉は年の離れた弟だ。まだ七歳で手を焼くことも多いけれど、私にとってはかわいい弟だ。その弟に気をつけろとは……。  放り投げられた枕のせいで私の思考は中断された。私は仁王立ちになり、布団の上で泳ぐまねをしている智哉に大声で怒鳴った。 「こらっ! 布団の上で暴れるなって、何度言ったらわかるのよ‼」 「だって……」 「だって、じゃない! 早く寝なさい」  智哉は頬をふくらませ、抗議の視線で私を見上げたが、案外素直に布団に入った。薄い掛け布団の奥に頭までもぐり込みながら続ける。 「姉ちゃん。明日の朝起きて、いっしょにクワガタ取りに行こうぜ。この前じいちゃんに教えてもらったんだ。クワガタがよく集まる木」  私は思わずこめかみを押さえた。 「何しに来たと思ってんの? 遊びに来てるんじゃないのよ、まったく。大体もうそんな時期じゃないでしょう。九月の終わりなんだから」 「でも、もしかするといるかもしれないだろ。なあ」 「いいから寝なさい」  間髪を入れず、ぴしゃりと言ってやる。うらめしそうに私を見上げ、智哉はぷいと横を向いてしまった。  やれやれ。  私はため息をつくと智哉の隣に横になった。両親はまだ祖父達と母屋の座敷で話しこんでいるらしい。  敷かれたままになっている二組の布団を眺めやり、いつしか私は深い眠りに落ちていた。      *  次の日、私は母親のけたたましい声で目が覚めた。 「加奈子、加奈子、起きて。ともくんがいないの‼」 「……え?」  眠い目をこすりつつ、体を起こして隣に目を向ける。人がいた印のしわを残すシーツの上に、寝くたれた弟の姿はなかった。 「起きた時にはもういなかったから、おじいちゃんに頼んで一緒に虫とりに行ったんだろうと思ってたんだけど。聞いたら知らないっていうのよ。加奈子、心当たりはない?」  母親の涙声に近い訴えに、私の顔から血の気が引いた。  もしかして……。  脳裏に寂しげな伯母の微笑と忠告の言葉がよみがえる。  頬をこわばらせた私の様子に、母親が必死の声音でたずねた。 「あなた、何か知ってるの?」 「滝か、川か……きっと水の近くよ‼」  怒鳴るように母親に返し、私は着替えもそこそこに寝ていた部屋から飛び出した。額をつき合わせて相談していた祖父達にも事情を話し、昨夜智哉がどこかの水辺で遊びたいと言っていたと伝える。  二時間後、智哉は村を流れる川の浅瀬に浮いているところを発見された。  ただ横たわる息子の姿に父親は絶句し、母親は半狂乱で泣き叫んだ。 「何で、なんでこんなことに……!」  私は唇を噛みしめて、涙ににじむ両親の背中を見つめることしか出来なかった。  そして今、私は水の宮がいるという裏山の大滝へ向かっていた。  鬱蒼とした森が広がる通る人もいない道。ゆるい坂道がいつまでも続き、絶望のふちをのぞき込む気持ちにさらに波風を立てている。  自身のふがいなさに唇を噛みしめ、私は後悔と強い怒りに心を落とし込んでいた。 ──おばさんに教えてもらっていたのに、私は警告を生かせなかった。   その時、まるで太鼓が鳴るような激しい水音が耳朶を打った。私ははっと顔を上げ、最後の急な坂道を登った。木々の間を通り抜け、音が聞こえる方へと向かう。  唐突に目の前が開けた。周囲の木々に守られながらも白い水煙が私を手招く。  そこは、私達が住む世界とはまるでかけ離れた場所だった。  崖の上から大量の水が滝壷へと降り注いでいる。滝壷は長大な半円を形作り、水底に見える濃い色合いから深さは相当のものと思われた。散った水滴が光を反射し、私はまぶしさに目を細めた。だが私はその迫力に気圧されることなく、大きく息を吸い込んだ。滝に向かって声を張り上げる。 「水の宮! いるんでしょう!?」  すると、脇の雑木林からひょいと少年の顔がのぞいた。
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