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第二章 昨非今是
第二章 昨非今是
土方の小姓として雇われることになったが、後になって、
「いずれは監察として動いてもらうつもりだ。一日も早く京の町と新選組に慣れろ」
と耳打ちされた。
近藤が知れば、断固として反対するであろうに、土方はそれを主として命じ、伊織に是も非も言わせなかった。
入隊させるとは言わないなどと、随分話が違うではないか。
憤慨するものの、他に頼る宛もない身では、土方に従う以外に道はなかった。
***
消灯した副長室で、伊織は仰向けになって床に入っていた。
障子から微かに射す月明かりで、天井の木目を目でなぞる。
突然の変化を受け入れ切れず、どうしても眠りにつくことが出来ない。
屏風を隔てた先に、土方が寝息を立てているのが聞こえる。
あとは、自分が寝返りを打つ度に起こる衣擦れの音があるのみだ。
土方の小姓なのだから当然と言えば当然なのだが、気になって仕方がない。
仮にもうら若い女子と同室で、よくも平然と寝られるものだと妙に釈然としなかった。
おまけに、就寝前に用意してもらった小袖と袴を着ているせいで、非常に寝づらい。
(元治元年、四月二十一日、か――)
近藤が教えてくれた、今日の日付である。
この時点で、新選組の歴史はまだまだ始まったばかりだ。
この先、後世に残る有名な事件や戦が目白押しといったところだが、願わくば実際に目にすることのないうちに現代へと戻りたい。
(監察だなんてさせられたら、きっと命がいくつあっても足りないよ)
大体において、京都の地理などさっぱりなのである。いくらなんでも、慣れるまでに数カ月はかかると見て間違いない。
正式な隊士でもない伊織に諜報活動をさせようなどという土方の思惑が読めずに、大いに動揺していた。
(そんなことさせられる前に、帰る方法を見つけよう)
頭から布団を被り、伊織は固く目を瞑った。
こんなところにいたら、いつ死ぬかわからない。
なまじ新選組を知るが故に、この時代の物騒さもそれなりにわかっていた。
斬り合い、討ち入り、暗殺、そして戦争。
そういうものが、ごく当たり前に頻発する時代だ。
(あぁ駄目だ! そんなこと考えてたら余計に眠れない……!)
眠ろうとすればするほど、様々な思いが沸き起こる。
今頃、現代では大変な騒ぎになっているのだろう。
自分でも未だに夢じゃないかと思う。むしろ、悪い夢であって欲しいとさえ思った。
***
明け方、騒々しい気配に伊織は目を覚ました。
何だかんだ言って、結局は疲れから眠りについていたらしい。
ばたばたと落ち着きのない足音が方々から響き、伊織も咄嗟に飛び起きた。
(何だろう……?)
絶対に、ただ事ではない。
見れば、土方の姿も既に部屋にはなかった。
言い知れぬ不安に駆られて、伊織は副長室を飛び出した。
まだ夜も明けきらぬ薄闇のなか、屯所の門に集結する隊士の姿。
煌々と篝火が焚かれ、ざわざわと話す声がこちらにまで届いた。
集う隊士は皆、浅葱の隊服を着用している。
(やっぱり何かあったんだ)
初めて見る本物の新選組隊士の群は、想像より数段物々しい。
無意識にその中に土方の姿を探すが、それらしい影は認められなかった。
(土方さん、どこに行っちゃったんだろう……)
おどおどと庭を見回してみるが、土方はもとより、近藤や沖田の姿も見つけられない。
どうしたものかと、その場に立ち尽くしてしまった。
と、背後から声がかかった。
「おい」
びくっと身を震わせて振り返ると、探していた土方の姿があった。
やはり、隊服を着込んでいる。
「土方さん! 何かあったんですか!?」
土方と、門に集う隊士たちとを交互に見て訊く。
「仕事だ」
と、土方は隊服と一本の刀を伊織の前に突き出した。
刀は長さからして太刀ではないようだった。
脇差である。
また隊服のほうも伊織が現代で着ていたレプリカだ。
「仕事……って、これ……?」
鼻先に突きつけられた隊服と脇差が、小姓の仕事とどう関係するのかと疑問に思いながら、土方の顔へと視線を滑らせる。
「木屋町で不審火があった。既に何人か先行させたが、おめぇも原田に付いて周辺の取り締まりにあたれ」
極めて真剣に、土方が言う。
だが、すぐには土方の言葉が理解できなかった。
だって、それは隊士の仕事ではないのか。
「今、門に集まってるのが原田の隊だ。おめぇのことは話してある、早く行け」
土方は簡潔に冷静に命ずる。
予想だにしていなかった。これほど性急に監察見習いをさせられるなど、どうして予測出来ただろうか。
瞠目して戸惑う伊織の様子を見ても、土方は眉一つ動かさない。
「どうした。行かねぇのか」
言葉とは相反して、土方はさらに隊服と脇差を突き出す。
それを伊織は、押し切られる形で受け取ってしまった。
「行って……何をすればいいんですか……」
「原田の指示に従え。遅れをとるぞ、急げ」
それだけ言い残し、土方はその場を後にした。
土方が廊下の角を曲がるまで見送り、伊織は意を決して隊服に袖を通すと、渡された脇差を腰に差した。
行かなければならないんだ。
これは副長命令なのだ。逆らえばどうなるかわからない。
伊織はローファーに裸足を突っ込み、門に集まる隊士の一団へ向けて走った。
「原田さん! ……あのっ、原田さんは……」
とにかく言われる通りにすれば間違いはないのだと、隊士たちに原田の所在を訊く。
『原田』と言われて思いつく人物は、ただの一人しかいない。
原田左之助であるに違いないと思った。
「遅ぇぞっ!!!」
地に響く怒号が飛んだ。
「ひぇっ! すみませんっ! あの、私……っ」
隊士たちが左右に退いて、原田と伊織との間に道を開いた。
「他の隊はとっくに出ちまっただろうが!!」
背の高い美丈夫然とした風貌に似合わず、傲然と怒鳴る。
その気迫に萎縮して、伊織はもう一度詫びたが、もう原田の眼中にはないらしかった。
「原田隊、出動ォッ!!!」
原田の号令と共に、隊は新選組の屯所を出発した。
隊の最後尾に遅れてついて、伊織も門をくぐる。
一歩外に出てみれば、そこは薄闇に広がる一面の田畑だった。
高い建造物や電柱など、どこにも見えない。空を仰いでみても、電線の格子などそこにはなかった。
(本当に……幕末なんだ、ここ……)
今更ながら、改めて驚嘆する。
知らずと半開きになった口を引き結び、さらに離れてしまった隊との距離を縮めた。
原田たちとはぐれて迷子にもなっては大変である。
京都の地理など、右も左もわからないのだから。
足早に現場付近へと向かう隊士たちの後をついていくだけで、伊織には精一杯だった。
ただでさえ小柄で、歩幅も広くはないのに、腰の脇差しのせいでひどく歩きにくかった。
***
自分の進む方角が北か南かも判然としないまま町中らしい界隈までやって来ると、隊士たちは諸処に散らばった。
火事の現場からはまだ少し離れた場所らしく、現場からの喧噪は届くものの、火そのものは見えない。あるいは既に消火された後なのかもしれなかった。
(どうしよう……何をすればいいんだろう)
他の隊士が巡回や付近の民家商家への聞き込みにあたる中、伊織は所在なく往来の真ん中に佇む。
「おいっ! 何やってんだよ、こっちだ!」
見れば、真正面から原田が苛々とがなりながら伊織を睨んでいた。
「す、すみません!」
「ボサッとしてんじゃねぇ! 火付けの犯人が潜んでるかもしれねぇんだぞ!」
びくびくしながらも原田の側へ駆け寄ると、原田はフンと鼻を鳴らして踵を返した。慌てて伊織もそれに続く。
と、伊織の視界のぎりぎりのところを何かの影が通った。
「えっ──!」
ほとんど影しか見えなかったが、明らかに隊服は着ていなかった。隊士ではない。
即座に影を目で追ったが、そこには誰の姿もなく、深い堀のようになった川に沿って家屋敷が軒を連ねるばかりだった。
けれど、確かに、何かがいた。
「原田さん!」
影のあった方向を凝視したまま、前を行く原田を呼び止める。
「何だよ!」
「今、誰かいました」
そこから目を離せずにいる伊織に原田はつかつかと歩み寄り、同じ方向に目を凝らした。
「……何もいねぇじゃねぇか」
「だから、通り過ぎてったんです」
原田は愕然と口を開けた。
「馬鹿じゃねぇのか!? 何でそれを先に言わねえんだよ!!」
続けざまに原田は隊士たちに怒鳴った。
「犯人が近くにいるぞ!! 総員、付近の退路を断て!!!」
直後にはすべての隊士が四方に駆け巡る。その行動の迅速さに、伊織は目を見張った。
「俺たちは橋だ」
言われて、伊織は原田の後に続いて走り出す。
「見つけたらこっちに追い込め!!」
やがて川に架かる小橋を渡ったところで、原田はぴたりと足を止め、来た方を振り返る。伊織もそれに倣った。
「で、間違いなく犯人なんだろうな?」
「えぇっ!? わ、わかりません!」
不審な影を見たから報告したまでで、それが放火犯だとは断定できない。
原田が勝手に犯人だと言って隊士を煽ったんじゃないか、と伊織は内心で逆らう。
「何っだよ、おめぇが見たっつったんじゃねえか!!」
「怪しいと思ったから知らせたんですよ、犯人だとは言ってません」
「怪しいと思ったんだな!?」
「は、はいっ」
「よしっ、じゃあやっぱ犯人だ!」
単純明快な会話の合間に、隊士たちの声が響いた。
「いたぞー!!!」
「囲め! 小橋に追いつめろ!!」
「そっちに行ったぞ、逃がすな!!」
途端に緊迫した空気が張り詰める。
「──来るぞ。おい、ここで引っ捕らえるからな。土壇場で怯むんじゃねぇぞ?」
伊織に話しかけた原田の横顔は、楽しげとも感じられる高揚した笑みを浮かべていた。
「は、はい……」
伊織はといえば、元より及び腰である。こんな状況で笑える原田が、異質なものに思えてならなかった。
「来たぞ!」
原田が抜刀するのと同時に、伊織は橋の向こうを見た。
太刀を抜いた新選組隊士たちに追い立てられて、こけつまろびつしながら逃げてくる、黒小袖の男。手には、やはり抜き身の太刀が握られている。
その光景に、伊織は慄然とした。
「抜け!」
原田の声にさえ、ひとかたならぬ恐ろしさを感じ、足が大きく震え出す。もはや声も出なかった。
そうする間にも男は橋にまで迫り来る。
前方に立ちはだかるのがたった二人と見ると、男は太刀を振りかざして突進してきた。
「来たぞっ! 早く抜けっ!!」
「おぉおおぉーっ!!!」
鼓膜が破れんばかりに吠えて、真っ向から突っ込んで来る男の目は血走り、尋常ではない。
(怖い───!!)
伊織がついに悲鳴を上げそうになった瞬間、傍らの原田が男に向けて跳躍した。
「通さねぇぜっ! かんねんしろやっ!!」
言うが早いか太刀が早いか、原田の真剣が一閃して男の右腕を斬りつけた。
瞬く間に、男の腕から鮮血が迸る。
にも関わらず、男は太刀を取り落としてなお、次は伊織へとのめって来た。
その常軌を逸した形相に、伊織は息をすることすら忘れてしまった。
「どけぇえーッ!!」
「! しまったッ、高宮!!」
行き過ぎた原田が身を翻すも、男より一足遅れをとる。
「っ、いやあぁぁッ!!!」
甲高い悲鳴と共に、伊織の腕が脇差を抜き放つ。
次の瞬間、耳にくぐもった呻き声がまとわりついた。
脇差を介して、手に腕に嫌な手ごたえを感じ、伊織は再び凍り付く。
そのすぐ横に男は倒れ込んだ。すぐさま取り囲んでいた隊士たちがそれを押さえ込み、縄をかける。
「─――─」
手に残る、人の肉を斬った感覚。刀身に散った男の血の飛沫が赤々と曙光に映えた。
噛み合わない歯がかちかちと音を立てる。
伊織は恐る恐る男の倒れたほうへ目を泳がせた。
左右の腕から血を流したまま後ろ手に縛られ、隊士たちに手荒く引っ立てられていた。
斬り殺さずに済んだ安堵とともに、人に斬りつけたことへの恐慌が伊織を襲う。
伊織は脇差を放り、夢中で駆け出していた。とにかくこの場から離れたかったのだ。
「原田さーん!」
伊織と入れ違いで、原田の元に沖田が駆けつけた。
「私のほうでも一人捕らえたんですけど、どうも長州の者じゃないかと……」
「そーかぁ。そんじゃ、こっちのも長州の野郎かな」
先年八月の政変以来入京を禁じられているはずの長州人が、京に潜伏していたという事の重大さを些少も気にかけない様子で、原田は飄々と言う。
犯人は今し方新選組屯所へと連行され、現場には原田と沖田の二人が残っていた。
「あれ、この脇差……」
沖田がふと、投げ捨てられた抜き身の脇差を見つけ、拾い上げた。
「これ、土方さんの脇差じゃないか……。なんでこんなところに……?」
不思議がる沖田の横で、原田が同じく脇差を見やる。
「あぁ、そいつは高宮って小僧が持ってたんだ」
「へー? じゃあ土方さんが預けたのかー」
沖田は、おや? と辺りを見回した。
「それはそうと、高宮さんは何処へ?」
「それがよー、犯人に斬りつけてすぐどっかに走ってっちまったんだよな」
何でもないことのようにのんびりと言う原田に、沖田は少し大袈裟なくらいに驚いた。
「高宮さんが犯人を捕らえたんですか!?」
「おぅよ。最初に不審な影を見つけたのもあいつだしな。お手柄じゃねぇのか?」
原田としては、自分が初太刀で犯人を止める予定だったのを、失敗したのが気に入らない。
沖田は唖然とした。
「はっはぁー。土方さんの目に狂いはなかったってことかなぁ」
それとも、窮鼠猫を噛むというやつで、無我夢中のうちに引き起こしたまぐれだろうか、と沖田は首を傾げる。
「だいたいよ、あいつ一体何なんだ?知ってんだろ? 総司」
「え? えぇ、まぁ。土方さんお抱えの小姓さんですよ」
にっこりと笑って答える沖田に、原田は理解不能といった表情になる。
「土方さんから聞いてないんですか? 隊士ではないけど、高宮さんは助勤職見習いなんですって」
「んあっ!? 助勤!? 小姓がっ!? あいつがか!?」
原田が顎を外す勢いで驚き、その顔の面白さに沖田はついぞ吹き出した。
「でもねぇ、このことは試衛館以来の仲間以外には内緒ですよォー? ぷぷっ! 助勤は助勤でも、何せ監察方だそうですからー」
「えぇえぇぇぇーッ!!?」
もう殆ど口が開ききって塞がらない原田を余所に、沖田は周囲を見回す。けれど伊織の姿は、影も形も見当たらなかった。
「先に屯所へ帰っちゃったんですかねぇー……」
***
沖田と原田は、詳細報告のために一旦屯所へと戻った。
二人はまず土方を訪ね、副長室に場所を移した。
「高宮さんはまだ戻ってないんですか?」
副長室をきょろきょろと見ながら、沖田が血痕を拭った脇差を土方の前に差し出す。
「一緒じゃなかったのか?」
てっきり原田と一緒に帰って来るものと思っていた土方は、目を丸くして原田を見た。
「いや、それがよぉ、俺の手柄横取りして、どっか行っちまったんだよなー。その刀放り出して」
平然とした顔で、原田は刀を指し示す。土方は示された脇差を手に取ると、口元でせせら笑った。
「大方、初めて人に斬りつけて肝が縮んじまったんだろうよ」
「なぁ土方さん。どうも話が妙だと思っちゃいたが、あの女子みてぇな小姓を監察にするってなぁ、本気なのか?」
「俺ァ本気だ。これから教育してきゃあ、なかなか都合のいい小姓になると見てる」
何となく不気味な笑顔で言う土方に、原田は納得がいかないような複雑な顔になる。
「もー、土方さん。やっぱりそっちが目的なんだ?」
場の空気も読まずに沖田が茶々を入れると、原田も妙に溜飲が下がったように破顔する。
「はっはぁー、そういう狙いがあったのかい! 土方さんも水くせぇなー、そんならそうと言ってくれりゃあいいのによー」
「ですよねぇ? 土方さんて意外とむっつりなんだもんなぁー」
「待て待て待て待てッ!! 何の話だ!!」
沖田によってすっかり緊張感がなくなった雰囲気に割り込んで、土方は戒める。
「くだらねぇ冗談はいらねぇ! んなことより、伊織が何処に行ったか知らねぇのかよ!?」
「あ。ほら。伊織、だなんて呼び捨てにして、すっかり亭主気分だ」
「だから冗談はいいっつってんだろ! おめぇら探しもしねぇで帰ってきたのか!?」
沖田と原田は互いに顔を見合わせた。
「だって、私が現場に行った時にはもういなかったし……。原田さん、どうなんですか」
「えー、俺だって立て込んでたしよォ。あいつの行きそうな所なんて知らねぇし……」
「もー、ダメだなぁ」
「何だよー、そぉんな気になるんだったら、土方さんが自分で探しに行ったらいいんじゃないのォー!?」
二人のやり取りが転じて土方に矛先を変える。
言われる通りに自ら探しに行こうとも、まだ土方には早々に片付けねばならない仕事が山積みで、迷子を探し歩く暇はなかった。
土方は、やれやれとため息を吐く。
「総司、悪いが頼まれてくれるか……」
迷子捜索を依頼すると、沖田は躊躇もなく笑って快諾した。
***
伊織は清水寺の一角に座り込んでいた。
一日中、京の町を歩き回り、やっとのことでこの場に辿り着いた時には、日の入りが近くなっていた。
ひたすら帰りたいと願いながら歩き続けてきた。けれど、いざ舞台に立ってみれば、足が竦んでしまってどうしても飛び降りる気にはなれなかったのだ。
こんな時代にはもう少しもいたくないのに、それでも死の恐怖には勝てない。
何度も身を乗り出して、けれど下を見ることも出来ないまま身体を引っ込めてしまう。
仕方なく舞台を離れ、境内の一角にこうして小さくうずくまっているのだ。
(──どうすればいいんだろう)
茜色に染まった空を鴉が群を成して山へ向かう。
その光景を、伊織は力なく見上げた。
人に斬りつけたのは、生まれて初めてのことだった。
この時代に、それは必ずしも罪にはならない。頭では理解できることを、今、心身が頑なに拒む。
平成という時代に生まれ育った者に、それは到底受け入れることの出来ないものだった。
あの時、刀を抜かずとも他に方法があったのではないか。
相手は刀を取り落として、素手で向かってきたのだ。どうして自分が刀を抜く必要があっただろう。
相手が罪人であれ何であれ、人に傷を負わせればそれは行き過ぎた対処だとしか思えなかった。
こんな時代にさえ来なければ、と伊織は嘆く。
現代へ帰ることも叶わず、といって新選組に戻ればまた、今日のようなことが起こるに違いない。いや、いつかは本当に人を斬り殺してしまうかもしれない。
そう考えると、恐ろしさに身が竦み上がる。
間もなく日も暮れてしまうだろう。
何処へ行くことも出来ず、ここに座り込んで夜を明かすのか。
春とはいえ、夜はまだ冷える。
今夜を明かしても、次の夜はどうするのか。そのまた次の夜は。
(……いやだなぁ……)
じわりと涙が溢れる。
ひどく心細かった。
新選組では、自分の失踪をどう思っただろうか。
幕末の世に、伊織が唯一関わった新選組。
土方は、今頃どうしているのだろうか。
思い巡らせて、ふと気がついた。
(新選組が恐いわけじゃないんだよね。私が恐いのは──、……)
人に太刀を向けて笑む原田を、恐ろしいと思った。
それは紛れもない事実。
原田に何度も自分に刀を抜けと言われながら、ぎりぎりまで抜刀出来なかった。
刀を抜いて人を斬る。
その行為そのものが恐いのだ。
そしてもっと恐ろしいのは、土壇場になって無意識のうちに抜刀し、斬りかかった自分自身だ。
逃げるではなく、斬ることを選んだ。
それが総ての答えであるような気がして、自分が自分でなくなってしまった錯覚に陥る。
伊織は、腰に差したままだった脇差の鞘を手に取った。
白い下げ緒のついた、艶のある黒鞘。
「──土方さん」
結局、頼れる人は他にない。
この脇差を押しつけた土方に、なぜだか会いたいと思った。
「土方さんじゃなくてすみませんね」
すぐ近くで声がして、伊織は反射的にそちらを見る。
「沖田、さん……」
真正面に、沖田が微笑んでいた。
伊織と目が合うと、沖田は悠々と近寄り、おもむろにその隣に腰をおろす。
「探し疲れちゃいましたよー。一日中町を歩き回って、もうへとへとです」
沖田が柔和に笑いかけると、伊織は不意に身体の芯が熱くなるのを感じ、わっと泣き伏した。
「帰りたいっ!! こんなところっ、来たくて来たんじゃないのに……っ!! どうして私だけ、こんな目に遭うの!?」
飾らない、正直な気持ちが自然に口をついて出てくる。
「元の時代に帰りたい……っ!!」
いくら幕末という時代や新選組という組織に魅力を感じていても、それは平和な時代にいてこそのものだった。
実際に身を置いてみれば、これほど空恐ろしいことはない。
こんなところへ来てしまうくらいなら、あの時あのまま死んでいれば、とさえ思ってしまう。
「……帰りたければ、帰ったらいいでしょう」
今笑っていたと思った沖田の、冷たく突き放す声が返った。
心のどこかで、慰めてもらえるものと思っていた伊織は、顔を上げて沖田を睨みつける。
「それを言うのっ!? 帰りたくても帰れないのに! だからこんなに辛いんじゃない!」
「舞台から飛び降りたら帰れるかもしれないって、言ってたじゃないですか」
「言ったよ! だけどっ、必ず帰れるって保証はどこにもない! それでどうして飛び降りることが出来るっていうんですか!?」
声を荒げながら、後から後から涙が出た。
なのに、沖田は泰然と構えて、慰めを言うどころかますます冷ややかに伊織を見る。
「本当に帰りたいと思うのなら、あなたはもうとっくに飛び降りていたはずです。ここにはいたくない、何が何でも帰りたいと思うのなら、ね」
「──っ!」
何かを言い返そうとして口を開き、噤んだ。同時に、涙までもが止まってしまった。
沖田の言うのは、正論だ。
「ねぇ、高宮さん。本当に、帰りたいんですか? それとも、ただ死ぬのが怖いだけですか?」
伊織は無言のまま俯いた。
帰りたいに決まっている。だから清水寺まで来たのだ。
死ぬのは怖い。だから飛び降りることが出来なかったのだ。
そのどちらも、伊織の本心であることに違いなかった。
「……死ぬのが怖いから、人を斬るのが怖いから……、だから帰りたいんです。私はあなた方とは違うんです、おかしいですか」
ようやっと言い返し、憮然とする。
「私にはよくわからないなぁ。高宮さんは未来から来たと言っていたけど、未来も過去もないような気がしますよ。同じ日本じゃないですか」
言って、沖田はひとつ息をつく。
「未来の人が怖いことは、今この時世に生きる人だって怖いんだと思いますけど……。違いますか?」
違わない。古今東西、生きている者にとって、死は怖いものに違いない。
「まだ分からないんですか? あなたは」
沖田の口調が、不意に普段ののんびりとした雰囲気を取り戻した。
それに少し安堵を覚えて、伊織は顔を上げ沖田の目を見つめる。
「……土方さんは、あなたを守ろうとしてくれてるんですよ?」
「守る?」
伊織はにわかに眉を顰めた。
「そう。こういう世の中ですからね、どこにいても安全だとは言い切れませんから。特に、あなたのように様々な情報を持っていれば、必ず面倒に巻き込まれる」
「言ってる意味が、よくわからない」
「だから、隊士でなく小姓にしたんだと思うんです。自分の手元で守るためにね」
伊織はますます困惑した。
沖田の言う通りなら、何故監察の見習いなどさせるのか。守ってくれるつもりなら、どうしてわざわざ隊務に同行させるのか。
「なんで小姓に刀なんか持たせるんですか。そのせいで私は……、人に斬りつけてしまったんじゃないですか!」
「それは土方さんのせいじゃないでしょう? あなたは逃げることも出来たでしょうに。むしろ土方さんは、今日の隊務で、うまく逃げて身を守ることを教えたかったんじゃないですか?」
それなのに、原田を差し置いて手柄を上げてしまうのだから驚きだ、と沖田は朗らかに笑った。
「土方さんがあなたに監察職を命じたのは、何も危険を冒して仕事しろってことじゃないんですよ?」
「──じゃあ、どういうことなんですか」
沖田は相変わらずにこにこと笑顔を向けている。
「ここでちゃんと生きてゆけるようにってことです。いくら私たちでも、あなたを守ることにばかりかまけていられませんからね」
「つまり、自分の身を守れるようになれ、ってこと……?」
沖田は、ふふっと声に出して笑い、立ち上がった。
「まぁ、そういうことになりますかね」
***
日の光は、もうほとんど残っていなかった。
いつの間にこんなに暗くなってしまったのか、立ち上がった沖田の姿も薄闇がかかって、鮮明にとらえることが出来ない。
沖田がそのまま闇に紛れ込んで行ってしまいそうに思えて、伊織も立ち上がった。
「やっぱりここにいやがったか」
そこに、第三の声が届いた。
提灯を下げた土方が、大股でこちらへ歩いてくるのが見えた。
日暮れとともに肌寒くなった空気を、提灯の火が暖かな色で染める。
「土方さん、やっぱり来たんですね~」
あはは、とわざとらしく笑う沖田に対し、土方は決まり悪そうに眉を寄せる。
「うるせぇ、じきに夜になるってのに、いつまでも戻らねぇから来てやったんだ」
「ほらね、高宮さんのことが心配で迎えに来たんですよ」
と、沖田は伊織を顧みる。
けれど、当の伊織は、ただ呆然と土方を見たままである。
「何ぼさっとしてんだ! 早く戻らねぇと飯抜きだぞ!!」
「えーっ!? 嫌ですよォ」
「馬鹿、おめぇじゃねぇ、伊織に言ってんだ!」
「なーんだ、よかったァ。じゃあ私の夕飯は抜かれないんですね」
他愛もなくじゃれつく沖田と、無愛想ではあるが戯れ言にちゃんと受け答える土方。
そんな二人の姿を見て、伊織の目から涙がこぼれた。
ぽとぽとと粒を成して落ちる涙は、止まる気配がない。
「あれれ、泣いちゃった。んもー、土方さんが御飯抜きだなんて言うからですよー?」
「なんでだよ! んなことぐれぇで泣くんじゃねぇや」
いつ命を落とすかも知れない日常を過ごす者の、くだらない会話。
伊織は、涙にむせびながらも声を絞り出した。
「ここで──、私も、生きていける……?」
土方と沖田は互いに顔を見合わせた。
やがて土方は伊織に視線を戻し、意地悪く鼻で笑う。
「生きていくつもりなら、まず屯所に帰って飯を食うこった」
言って、さっさと踵を返し、元来た道を歩きだした。
「は、……はいっ!!」
伊織は、心底から嬉しいと思った。
沖田の言葉に、感謝した。
土方がついていてくれるなら、この幕末の世でも生きていけると、漠然と思うことが出来る気がした。
「遅ぇぞ! 飯いらねぇのか!?」
少し歩いたところで振り向いた土方の元へと、伊織は走り出した。
「いらなくないですっ!!」
幕末の空に、暮れ六つの鐘が響き渡った。
【第三章へ続く】
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