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おれは金属バットと鉄パイプを床に置き、両手を上げた。
石塚が楽しそうに笑った。「物分かりがいいじゃないか。物分かりがいいついでに、ノートをこちらに持って来てくれるかな。内容に問題がなければ、母子は解放しよう。ただし、お前には残ってもらってペナルティを払ってもらう」
「わかった。一つだけ訊いていいか」
「何だ?」
「ノートに固執する理由は?」
「うむ」石塚は少し考えた顔つきになった。「いいだろ、教えてやる。笹蛭は、全てなかったことにするプランだ。お前がいうところの幕引きは、間違った指摘ではない。それだけだ」
「俺が暴れたせいか」
「ははは。うぬ惚れるな。初めは小さな綻びだったが、覆水盆に返らず。鈴木夫妻は公表を企てた。その後の軌跡は、お前の知るところだ。くどい蒸し返しをする必要もあるまい。ノートの巻末には、クラッシュ・オペレーションの方程式が暗号処理されている。解読できるのは鈴木夫妻と鳥屋野駐屯地隊長の天里陸佐だけだ。天里陸佐はこれを欲している。以上だ」
「それならなぜ、俺とあんたが阿賀野川で会った時に、力づくで奪わなかったのだ? というか、ノートは鬼敷島の机に放置してあった。部下に回収命令を下せなかったワケでもあったのか」
「いろいろ事情があって、できなかった」
「そうか。あんたでもビビることがあるんだな」
「好きなように解釈してろ」
石塚は意味深に口元を歪めた。
おれは梨乃たちに向けられたナイフに神経を集中していた。
横目を床に落ちた工具箱へ走らせる。武器になりそうなのがありそうだ。
ハンマー、ドライバー、六角レンチ、ハサミ、ビニールテープ。
秒単位で決着をつけられるだろうか。
いや、無理するな。おれは自分に言い聞かせ、梨乃たちを見つめた。
郷土料理店で働きながら娘と平穏に暮らしていたのに、突如降りかかった災難は自然災害よりも怖かったろう。意味も理由も分からないうちに、拉致され、恐怖のどん底につき落されたのだ。手錠を嵌められ、目隠しされ、その恐ろしさは幾何のものか、計り知れなかった。
必ず、助ける。
おれは心の中で何度も何度も誓った。
必ず、助ける。
たとえ、俺の指が全部喪うことになっても。
おれがミスをすれば間違いなく二人は殺される。いや、二人が無事に解放されたとしても、拉致監禁の発覚を恐れた石塚たちは口封じするだろう。クラッシュとは全てを崩壊させることなのだ。おれはクラッシュの意味を理解し、懊悩した。「せめて手錠の鍵だけでも外してもらえないか」おれは頼んだ。
「ダメだ。鍵はここにある。取引が終わったら渡してやる」
石塚は手錠の鍵をちらつかせた。
おれはノートを差し出した。頼みの綱は、石塚が袋綴じに指先を挿入し、コノトキシンの仕掛けに触れてくれることだ。
石塚はノートをぺらぺらと捲っていった。
最後のページに辿りつくと、袋綴じに手をかけた。
指先で袋綴じの紙質を調べるかのように、念入りに触りはじめた。「カミソリでも仕掛けられていたら、痛いからな。用心、用心」石塚はおれの顔を凝視した。一秒毎に変化するおれの顔色を探るように。「ははん、そうなのか」
おれは眼をそらさずににらみ返した。ここで視線を泳がせば、異変に気づくだろう。「はやく、確認しろよ」おれの声はいくぶん上ずっていたかもしれない。
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