臨検

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「ところでねえ、このボート、お洒落でですな。一千万くらいしますか、それとも千五百万くらい?」 「そんなことどうでもいいでしょ? 用件済んだら、お引き取りくれませんか。こっちも忙しいんで」 「こりゃ、失礼しました。しかし、そうもいかんのですよ。どうもね、ここからSOSが発信されたらしいんですわ。中に病人がいますか」  巡査部長はあいかわらずおとぼけを連発していた。 「はあ? 病人なんかいるわけないでしょ。僕らはこれかラオユエ祭りの撮影なんです。阿賀町石間の係留所まで行かなきゃならない。係留許可証は持ってますよ」 「ほお、あなたたちもですか。実は我々も祭りの警備に向かう途中でしてね。毎年、酔っぱらって、川に飛び込む馬鹿がいますから。大阪の道頓堀と間違えているんでしょうなあ」  ラオユエ祭りとは、夜の川面(かわも)に映る二十三夜の月を掬いあげると奇跡的な良いことが起きると云われる、大正時代に始まった比較的新しい行事だった。ラオユエは撈月と書く。麻雀の和り役(あがりやく)の一つ、河底撈月(ホーテイラオユエ)がルーツになっている。つまり川に映った月を拾いあげる・・・不可能なことをやってのけようという、ロマンティックな意味だ。平成の中頃までは厳かな民間信仰行事だったが、SNSの急激な普及にともない、県外からの観光客も大勢訪れるようになった。フィナーレにはムーンライト花火が上がる。 「さて、ちょいと中を覗かせてもらうよ。あんたたち、職質を受けるわけだからね。おわかり?」  渡部の口ぶりが冷たくなった。 「ちょ、ちょっと何するんですか! 僕たち何も悪いことしてませんよ!」  青年の目線が泳ぎはじめた。動揺しているのだ。 「それはこっちで決める。どきな」  おれが一歩踏み込むと、青年の背後に一回りでかい男がのっそりと現れた。プロレスラー並みの体形だ。カーキ色のタンクトップから剥き出しになった上腕筋はライオンを思わせた。浅黒く日焼けした顔の中央部にブラックホールのように暗い眸があって、鉄に吸いつく磁石みたいにおれを凝視していた。そいつはぼそりと口をひらいた。 「サツに用はねえ。うせろ」  砂をじゃりじゃり潰すような声だ。
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