色無き風

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 だが、マツリの足は走り出すことができなかった。ふと、彼女の頭に、明日に迫った祝言がよぎったのだ。途端に、マツリの胸中に、それまで感じたことのなかった、身体を包む夜の闇のような、淀んだ感情が濁流のように広がっていく。    ……このまま、助けが来ずに村が燃えてしまえば。  そして祝言の相手の、あの名主の息子も炎の中に焼き尽くされてしまえば……。  いけない考えだ、とは思った。そんなことを考えてはならぬ、とは思った。だが、一度彼女を襲った濁流は、その理性を、繰り返し、飲み込み押し流してマツリの心を翻弄する。  ついにマツリの足は、暗闇の中、完全に動きを止めた。マツリは走るのを止めた。自分の村の方向に目をやれば、生い茂る黒い木陰の隙間からも、禍々しい焔がいよいよ激しく立ち上っているのを、認めることができる。まだ間に合う、まだ間に合う。マツリの心中で囁く声がする。だが、その声もいつしか消え失せる。細い月が東の空に姿を現わす。  やがて下弦の月が天頂に達し、煌々と峠を照らしはじめた頃、マツリはようやく、その足を再び動かした。ただし、隣村には背を向けて。ゆっくり、ゆっくりと、傷だらけの足を動かして、来た道を戻り始める。
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