第5話 ポケットの中に、マスクがいちまい

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第5話 ポケットの中に、マスクがいちまい

 公衆トイレを目指して再度、前進を開始した横川の耳に、あの神経に触る足音が聞こえはじめた。そろそろとどめを打ちにきたのだろうか。  顔をあげないでおこう、顔をあげないでこのままトイレに入って、水で流せばいい。  冷静になろう、と横川は自分に言い聞かせた。まだなんとでもなる。  あの大男は、自分を特殊な立場だと言っていた。警察の仕事をしていても、逮捕権はないと言っていたではないか。職質だろうと確保だろうと、そうやすやすとは、できないのだろう。それに強要脅迫でっちあげなど、法的に瑕疵のある行為によって証拠を手に入れても、罪には問えないはずだ。  それに、もしかしたら、実は警察をかたる詐欺師か妄想患者かもしれない。  妄想患者と思いついたとたん、横川は急に心と足が軽くなった気がした。  冷静に考えると、黒づくめを警官と呼ぶのは、あまりに不自然過ぎる。  あいつの主張するような、妙な立場の捜査員なんているわけがない。  口のうまいのも詐欺師というか、てらいのない病質のためだろう。  すると、後ろにいる女を刑事と思ったのも、勘違いだったのだ。  あの女は、実は患者につきそう医者か看護師かも知れない。  横川の、焦る気持ちが刑事と誤解しただけなのだ。  不安定な心の生み出した、虚像なのだ。  間違っていたのは、俺だ。  おかしいのは大男だ。  すると突然、「あっ、わけさあん、うとおぎさああん」若い男の鼻にかかった大声が聞こえた。「探してたんですよおお」  横川がびくっと肩を震わせて、声の出どころをきょろきょろ探した。しかたなく、みずると宇藤木も声のした方向を見た。誰かはわかっている。  パトカーと制服警官を側に、いつもの似合わないトレンチコート姿の難波刑事が手を振っている。彼は制服警官に「ほら、あの二人が噂の和気さんと宇藤木氏。ちょっと待っててくださいね」と言ってから、 「なにしてるんですかー」と、また大声を上げた、 「いま、忙しい」  放置しようとしたが、「このあたりだっていうのに電話に出ないし、パトカーに便乗させてもらって探そうと思ってたんですよぉ」と言いつつ、短い手足を懸命に動かして近寄ってくる。  彼の変な人懐っこさが、これほど不快に感じたこともない。ただ、制服警官の姿を目にして、急に横川の足取りが鈍ったのだけは、許せた。  宇藤木に近づいた難波は、相手の表情が目に入らないかのように言った。 「おふたりとも話は聞いてますか。ませんよね。また殺人予告があったんです。こんどはメールだったんですけど、なんか変なんですよ。よかったら、ちょっと手伝いません?」  すっかり狩猟モードにある宇藤木を手で制し、みずるが聞いた。 「その場で簡潔に教えて、無理だろうけど」 「はーい」  難波によると、坂の上にある医療機器商社のHP上にある就職用の質問メールを通じ、今朝になって従業員の殺害をほのめかす脅迫文が送られてきていたのが、先ほどわかった。担当者が時差出勤だったため、発見が遅れたのだという。警察が呼ばれ、脅迫文はこの近くの歯科医院で働く歯科衛生士のモバイル機器から送られたとわかった。特にアドレスを隠す工夫がなかったためだ。 「まだ若くて可愛い人なんですけど、泣いて否定するんですよ」 「そんなの、どう考えても誰かの陰謀くささがぷんぷんじゃない」 「やっぱり、そう思います?ぼくの勘もそうささやくんです。あの衛生士さんを、助けたい。お二人なら、力になってくれますよね。たとえ本部長の公認がなくても、係長には内緒にしていても」 「またかよ。懲りないやつ。だんだん、寅さんじみてきたよね」  みずるが気を取られたそのすきに、横川はトイレに向かった。はじめゆっくりと、次第にスピードを増す。  難波の声を聞いていた宇藤木は、横川を気にしつつ野次馬を見渡していたが、突然、その一角を指差した。 「難波君、あのお兄ちゃんたちに職質。きっと何か知っている」  まだ若い、二十歳をあまり出ていないと思われる男が三人、固まってこっちを見ていた。 「え、なんでですかあ」 「急げ。信じるものは、救われる。それ、行ってこい」  そう言い捨てて宇藤木は身を翻し、長い足を遠慮なくのばしてトイレへと向かった。 「おなかでも壊してるんですか、宇藤木さん」 「それより、あの子たち明らかに挙動不審になったわ。逃げられそうだから、とりあえず聞いて見たら。私たちと違って、職質の権限あるんでしょ。あ、それから、しばらくこの近くにいておいてね。まだ用があるの」  みずるもまた、無理に難波を三人組に追いやり、宇藤木のあとを追った。なんなら、あとであいつを使って、横川に職務質問と持ち物検査をさせてもいい。  横川は懸命に入るべき個室を探した。  一番手前は使用中止だった。そのとなりは、 「うわっ……」扉をひらいて、彼はたたらを踏んだ。  足を踏み入れるのも憚られるほど、新聞紙とトイレットペーパーが散乱していて、おまけにそれら紙屑は便器からうずたかく積み上がっている。流すどころか水中に投げ入れることもできない。  いたずらの絶えないトイレだとは思っていたが、今日は特にひどい。 (どこのばかだ、こんな時に)  とにかく、マスクをトイレに流したい。しかし無理に流せば、逆流してかえってすごいことになりそうだ。  いそいで身を翻し、三つ並んでいるうちの最後の扉に手をかけたところで、足音が迫った。横川の身がすくんだ。 「はい、おまたせー」と大きな声がした。  いつもくよくよと決断に迷う横川だったが、今日は何も考えないことにした。  急いで戸を閉めて鍵をかける。  中にこもり、震える手で胸ポケットから白いマスクを取り出す。  間違いなく、あの日のマスクだ。それに、耳紐の一部が赤黒くなっている。  色のついた部分は固まってこわばっているし、どう見ても血痕だ。さらに、縁にもかすれた黒い筋が入っている。これも血だと考えて間違いない。  急いで処理を図ろうとしたが、手が震えて自在に動かない。  とにかく水に叩き込もう。足で便器の上蓋をはねあげたところで、 「みいーつけたあ」  地獄の鬼のような声がトイレ中に響いた。  トイレの扉は、中背の横川の頭とちょうど同じぐらいの高さしかなく、その上に金属のフレームがある。それを大きな手がつかみ、その上から目が二つ、彼を見つめていた。 「ひえっ」知らずに声が出た。  あの狂ったのっぽは、扉に手をかけて背伸びをすると、楽々とトイレがのぞけるのだ。頭のどこかに、小学校の夏休み、母親の実家で読んだ妖怪図鑑の内容が浮かんだ。見越し入道という大きな妖怪がいたそうだ。  次の手を考え出せず、横川はマスクを手に持ったまま、ついにあまり清潔ではない床に膝をついた。便器の蓋はまた閉まってしまった。彼は泣き出した。和式にすればよかった、と後悔しながら。 「おーい、難波くーん、ちょっときてー」彼の様子を見た宇藤木が、また大声を出した。 「ちえっ、こないか。じゃあ、和気さーん」と、ふたたび呼ぶと今度は返事があった。 「入れるわけないじゃない」声が怒っている。  宇藤木の意識が、他に向かったと考えた横川は、えづきながらも再度、便器の蓋をあけようと図った。すると、 「だめだっ」トイレのパーテーョンがびりびり震えるほどの大音声が響いて、横川はまた身を竦ませた。  そしてついに、今度はさめざめと、横川は泣きはじめた。 「はーるーはな、のみ、のー」   調子っぱずれの歌を、宇藤木は小声で歌っていた。  もともと体格に見合った声量の豊かな男である。  それが声を絞っているのを聞いていると、いつもの黒づくめと合わせて、なにやら黒魔術の呪文でも唱えているかのように、和気みずるには思えた。 (あんた、まるっきり魔術師よ、ピエール)  宇藤木が、低くBGMらしき音楽を口で奏でていることはめずらしくないし、ときどき、変な替え歌を唄ったりした。だいたいがダークな内容である。  だが、今日は全体に内容が明るい。おそらく一応の事件解決にたどりついたのを、彼なりに喜んでいるのだろう。  彼の口ずさむ歌詩ではないが、たしかに天気は良好でも、風はまだ冷たく感じる。 「わたしも、いつもその詩は、上手に春の気候を表しているなあと思う。そんなお経みたいな節で歌わなければ、なおいいけど」  みずるの悪口を、宇藤木はにっこり笑って受け流した。ますます機嫌がいいらしい。 「それで難波君はね」と、みずるは説明を開始した。「二件の同時解決によって表彰されるかもって、ひそかに期待してたみたいなの。図々しい」  二人は、青く晴れた空の下、日除けのパラソルだけであとは吹きっさらしのテラス席に座っていた。先日の事件とは別件のためにある商店街にやってきていて、その一角に作られた「つどいのフロア」で休憩を取っていた。  しかし、他が開いていないせいか屋内はむやみと大勢の高齢者が気ままに座っていて、さすがにまずいとテラス側に出てきたのだ。  風のせいかこちらに人はおらず、かわりにたくさんのスズメが騒がしく鳴いていた。慣れている。おそらく、普段はお年寄りが餌を与えているのだろう。 「結局、この前の殺害予告はただの模倣犯のいたずらだったでしょう。三人組の学生だったあの子たち。本物が捕まっていないのに、表彰するなんてありえない、ということ。捜査自体も仕切り直しですって」  みずるが言うと、宇藤木は歌をやめて答えた。 「姿を隠すのにあれほど巧みな犯人が、あんな場所で野次馬に混ってるわけない。まあ、難波くんたちにはさらに頑張ってもらおう。こっちは別の用事ができて、ほっとした。ときに、当初犯人と疑われたお嬢さんは、無事に…」 「ええ、当然ながら無事職場復帰。歯科衛生士のお嬢さんはあの日の朝、出勤前に駅前のハンバーガーショップに寄って、場所取りのためパッドとハンカチをテーブルに置いて離れた隙に、いたずらされたそうよ。それがね、たしかにとっても可愛い人だった。難波のうるさい理由、よくわかった」 「どうせ口に手を突っ込まれて、痛めつけてもらいたいんだよ、可愛いお嬢さんに。お嬢さん、お嬢さん、……まんとめがねに気を付けろ…。そういえば、難波に似てるかも」  前に宇藤木の語ったところでは、マントメガネというのは古い米国製アニメの悪者の名前なのだそうだ。そして歌はその日本語版の主題歌だった。ときどき口ずさむので、そのたび誰に教わったか聞くのだが、祖母の子守唄だったとか、尊敬する人物の愛唱歌だったとか、いちいち変わる。 「それはそうと」宇藤木は唐突に言った。「あの、飲食店での物を置いての場所どりってのも、実に日本的な、安全に馴れた行為で、それが背景にあるのかな」 「被害にあった彼女も、不注意は認めてた。いつも行く、もっと静かで目の届きやすい店がお休みだったから、つい同じことをあの騒がしい店でしてしまったんだって。ただ、思うんだけど、少し注文が長引いたぐらいであんなことするなんて、盗むより悪質だし、手慣れてる気がする」 「そうだね、余罪があるかもね。ところで犯人は、あの会社に就職活動でいじめられたとか」 「ええ、正しくはインターンシップがらみとなるのかな。被害にあった医療機器商社は認めたがらないけど、学校差別があったみたい。担当者が相当失礼な扱いをしたそうよ。その意趣返し」 「やや気の毒な気もするが、関係ない女性を巻き込んだのはいかんな」 「あれは、仲良し三人組の一人が、ナンパに失敗した逆恨みの側面もあったの。衛生士さんはぜんぜん憶えてなかったけど、バイト先も近いから、隠れて付きまとっていたらしい。パスワードも、前に打ち込む姿を見ていて割り出した」 「なんじゃ、それは」宇藤木はがっくりと首を落とした。「よっぽど暇なのか。いや、それより別の進路を探すべきだな、諜報機関とか警察とか」 「だから衛生士さんは、この機会に、古い機器を最新モデルに変えますって。それとさっき、難波君が連絡してきて言うことには、『宇藤木さん、真犯人の見込みないですかね』」  宇藤木は掌をぱたぱたと振った。ない、ということだ。 「わかった。そう伝えておくね。あ、そうそう。加藤彩さんの意識が無事戻ったのは、聞いた?」 「いや、まだ」宇藤木はめずらしく身を乗り出した。「それはよかった。気分が明るくなる。落ちた時も、手に持った傘とかバッグがクッションになったのだったよね。大荷物を持って歩くのも悪くないな」 「ええ。だから宇藤木さんもカバンぐらい持ちなさい。でもね、致命的なケガはなかったものの、まだ記憶も混濁しているし、身体の調子も不安定だって」 「ふむ、そうなのか、気の毒な」 「それでも、リハビリ次第で元に戻る可能性は十分にあると言われましたって、寺本さんからお礼と報告があったわ。今は気軽にお見舞いには行けないけど、そのうちしっかりお尻を叩いて体を元に戻させて、さらにその最中にイケメンの医者か理学療法士のゲットを目指しますって」 「前向きでよろしい」 「あとね、お忙しいでしょうが、入院中にぜひ見舞いに来てくださいって、宇藤木さんに」 「そうね」今度も宇藤木はうなずいた。頼まれて見舞いに出かける意思を示すとは、これもめずらしかった。 「一度お邪魔しなければね。もちろん、見舞い制限が終わってからの話になるが、しばらくは病院にいるだろうから」 「うん。当日の記憶も全くないみたいだし、これからよね。加藤さん、田舎にお母様がいらっしゃるけど、体調が優れなくてすぐにはこられないそうなの。でも、あんな友だちがいてくれて、本当によかった」 「この前もそうだ。友人のためにあれだけ弁じるなんて、なかなかできないよ」 「そうよね。あの訳ありバッグをゲットしたのだって、向こうがあとでグズグズ言ってきたら、引き受けるつもりだったのかもね。互いを思いやれる、いいコンビなのかな。ずっと仲の良いままだといいな」  だまってうなずいた宇藤木は、 「…ふたりいればなんでもない」と、また彼女の知らない歌を唄った。  しかし、悪い気分ではない。みずるは青い空を見上げた。  グッドニュースの後では、怪しげな歌でも許せる気がしてくる。 「でもその、マスクどうしたの」みずるはやっと気がついたように、宇藤木の顔を覆っているものについて尋ねた。小さなしわがたくさん寄って、明らかにかなり痛んだ、くたびれた不織布マスクだった。 「相当のベテランのようね。この前の面白いマスクは?」 「あの、トイレであばれた騒ぎの間に、落としたらしい。探したのにないんだ。追加注文したのにまだ来ない」 「で、それになったのか。物を大事にするのは悪くないけど、再利用もほどほどにね」 「前に使いっぱなしにしていたのを見つけ、煮沸消毒したら、見事ふにゃふにゃになった。抗菌スプレーを振りかけるだけにすればよかった」 「ひとは経験から学ぶ、ってことね」  重々しくうなずいた宇藤木にみずるは笑いかけ、ショルダーバッグからポーチを取り出した。 「じゃあ、これ。さしあげます」  ポーチの中からでてきたのは、ビニール袋に入った布マスクだった。 「うちの母が製造いたしました。ほら、一時キルトに凝っていたでしょう。あの流れで。加藤さんほどの出来ではないのは、我慢してね」  丈夫そうな布製で、青いチェック柄だった。縁には小さく刺繍がしてある。 「おや、なんてゴージャス。でも、和気さんは自分で使わないのですか」 「え、わたし?やだ」みずるは首を横にぶんぶん振った。 「悪いけど普通のでいい。目立ちたくない。これを押し付けともいう」 「いや、ありがたく頂戴いたします」  手で拝んでから、二つあるうちのひとつを宇藤木はその場で顔にかけ、のこりを大切そうに胸ポケットに入れた。 「横川氏も、そこにマスクを入れたまま、忘れてたとはね」 「そう。ポケットの中に真実があって、それが存在を訴えたので、罪が明るみに出たのです。古人曰く、『ポケットの中に、マスクがいーちまい…』」  彼は、調子の外れた歌を歌いはじめ、「マスクをはたいたら、あくにん逃げた」とまで歌うと、近くにいたスズメが一斉に青空へと飛び上がった。それに気を悪くしたかのように宇藤木は、 「だめだ」と首を振った。「せっかく作詞したのに、わたしの音域に合わないのか。もっと愛くるしい声で歌うべきというのか、いや、おかしい」 「作詞?」みずるが聞くと、宇藤木が自作という詩を披露した。ただの童謡の替え歌だが、彼らしく、どこか不穏な内容になっている。 「それを唄って、どうするの」 「面会制限が緩まったら加藤さんの見舞いに参上し、そこで披露しようとも考えていた。勇気づけに」 「そんなの、体調が悪化しそうよ」みずるは、歌詞の一部修正を主張してから、口を不満げに尖らせる宇藤木に、 「じゃあ、わたしが」と、小さな声だったが自ら一部を唄って見せた。 「そーんな素敵なマスクがほしい」  澄んで、のびやかな声は素人とは思えなかった。  はじめ目を見張った宇藤木は、一転して笑顔をみずるに向けた。 「なんでもできる人とは思っていましたが、童謡歌手までなさるとは」 「わたしだと、漢字違いの動揺の方よ」 「そのほうがいい」  そして、ふたりは小さな声で替え歌を唱和した。  優しい歌声に安心したのか、いつの間にかスズメが戻って席のパラソルにとまった。かわりにふたりの声が青空に登ってゆく。 「マスクをはたくと不思議がおきる、マスクをはたいたら……元気になあれ」
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